残業ゼロを合言葉に、とりあえず仕事があるのならばさっさと言え、とばかりに鈴木教授へと睨みを利かせながら事務仕事をこなしていると、思わぬ伏兵が現れた。
あまり存在感の無い、というよりもいるのかいないのかよくわからない沢渡准教授が申し訳なさそうに原稿を葉月へとよこしたのだ。
未だにアナログ人間である教授の下、なぜだか自身もおもいっきりパソコン系の苦手な准教授は、それでもあまり葉月の手を煩わせることはないのだけれど、いつもこうやってぎりぎりまで仕事を溜めてはどうしようもなくなって葉月へと持ち込む事が多い。
今日持ってきた仕事も提出期限が明日と、どうせならもっと早く言え、という言葉を飲み込んで、優しく嫌味を言うに留めた。やるやらないとごたごたする時間があれば、どうせやらなくてはいけないのだから、さっさと取り掛かった方がよい、という判断からくるものだけれども、その事務的過ぎるやりとりに、八木青年はびびり、学生は蜘蛛の子を散らすようにいなくなってしまった。
イライラとした気分を沈めながらも一心不乱にキーボードを打ちつづけ、なんとか終わりが見えるようになるころには終業時間を過ぎており、他の事務仕事、教授のメールチェックやその報告、ついでに返信など細かな作業に、一次沢渡の仕事を横に置きながらとりかかる。
細細とした仕事も積もれば時間を取られ、あっというまに時計の針は進んでいく。
嫌な予感がしつつも、やっぱり同じように事務仕事に終われている八木青年に八つ当たりをしながら黙々と仕事を片付けていく。
仕事を押し付けた当の本人はというと、すでにとっくに帰宅している。なにをふざけたことを、と思わないでもないが、こういう職種についているにもかかわらず、家庭を第一に考えるライフスタイルを貫くには、こうやって下っ端の苦労を踏み台にしなくてはいけないのだな、と、変なところで感心してしまった。
もちろん、葉月としては恨みつらみは忘れないけれど。
「八木君、終わり?」
「あーとーーすこしーー」
弱弱しい返事を吐き出し、二人きりの部屋はキーボードの音だけが響く。
「そういえば、一昨日変な電話ありませんでしたか?」
「一昨日?何時ごろ?結構遅くまで寝てたし」
「午前中だと思うんですけどね」
「ふーん、じゃあ記憶にないや。チェックもしてないし。っていうかどういうわけか電源落ちてたんだよねぇ、不思議」
「ああ、よかった」
「よかった?ちょとまってみ、チェックしてみるから」
一旦手を止め、携帯電話の履歴をチェックした葉月は、八木青年からの着信歴が残っていることに気が付く。
おどおどしている八木青年にその事実をつきつけると、あっさりと自分の彼女が電話をしたのだと、白状した。
そういわれればうっすらと目の周りにあるアザに気が付かないふりをしていたけれど、ここは一つ大人として突っ込んであげなければいけないのかな、と、葉月の疲労していて過激さがましているイタズラ心が刺激される。
「またなんか地雷踏んだ……とか」
「ええ、まあ。っても俺じゃないんすけど」
やっぱり誰かに話したかったのか、八木青年が切々と訴えかけてくる。
聞くんじゃなかった。
そんなことを思いながら、適当に相槌をうちながら手はシッカリ仕事をこなしていく。
「うちの学生が?」
「偶然会っちゃいまして」
地方都市で都会だといっても思いのほか可動範囲の狭いこの街では、若者が出向く場所が限られる。当然割と年齢の近い八木青年と学生の守備範囲にも重なりがあり、かなりの確率で知人に出会うことが多い。だから学生の一人と出会ったところでどうということはないのだけれど、その学生というのが最悪だった。
世の中うっかりと思ったことを思ったように話す人間、というのが一定の割合でいるもので、彼はその手の人間だ。もちろん本人に悪気はないのは十分わかるのだけれど、その年になってオブラートにつつまない会話は、はっきり言えばアホであり、場の空気を乱すことこの上ない。
研究室内でやるぶんには、失笑程度ですむその癖も、外部で発揮されたとあってはたまったものではない。
「彼女の目の前で、ものすごく明るく。「あれ?先生って工藤さんとつきあってるんじゃないんですか?」ってやってくれちゃったんですよう」
泣きそうになりながら訴えかける八木青年は、その後の修羅場を詳細に語る。
話半分以上聞いていない葉月は、私とこいつが?といった憤り以外の感想をもっていない。泣き言を繰り返す八木青年にしても、手はなんとか作業をこなし、ぽつぽつ訪れる学生の面倒もみながら、遅々として、だけれども作業は終わりへと向かっていった。
「……終わり、と」
できるだけのことはやったと、データをメディアにセーブしながら葉月は腕をぐるぐる回す。どうしても同じ姿勢でディスプレイに向かっていると背中のあたりが固くなる。そういえば視力も悪くなっているような、と思いながら電源を落とす。
「おつかれーー」
「うらぎりものーー」
恨めしそうな八木青年を置き去りにして、午後8時を過ぎた頃葉月は帰途につく。
なんとなく、エレベーターへ向かう気分ではなく、反対側にある階段へと歩き出す。
二度あることは、ではないけれど、再びあの状態になるのはできれば避けたい。物覚えの悪い葉月にしても、高山教授の不可解な行動については、どこかでひっかかっているところがあるのだ。
コツコツとヒールの音を鳴らしながら階下へと歩きつづける。
薄ぼんやりとした照明しかついていない廊下は、どこか不気味で、ひっかかりがなければ葉月だとてこんなところは通りたくないと心底思う。
誰にも会うことなく自転車置き場にたどり着いた葉月は、ホット小さく息を吐き出し、バッグからカギを取り出す。カチリとカギが開いた瞬間、再びすぐ真後ろから声がかかる。
驚いて飛び退いた瞬間に自転車を蹴倒し、派手な音をさせながら、それが真横に倒れる。真横になった自転車の隣で、バッグを胸に抱え込むようにして葉月は声のした方へ向き直る。
やはりというか、どうしてというべきなのか、そこには気配をさせることなくいつのまにか近づいた高山教授が立ち竦んでおり、自転車の方を眺めながら呆然としている。
「た、高山先生、どうされましたか?」
できるだけ平静を装いながら、自転車を起こしつつ、微妙に距離を開ける。立ち止まった場所から動くことなく、高山は葉月の姿を眺めている。
「あ、いえ、あの。今日も遅いんですね」
「ええ、まあ」
曖昧に微笑みながら、さらに距離を開ける。冷静に考えれば随分自意識過剰で失礼な行動だけれども、後ろに立たれたのが三度目ならばこれぐらいしてもいいだろう、と、葉月は自分に言い聞かせる。
「送って、いきましょうか?」
「いえーー、大丈夫ですーーー、お疲れ様でーーーす」
馬鹿みたいに明るい声で叫びながら、もはや右足はペダルを踏んでいる。
いつもにはない力強いこぎっぷりで、あっという間に高山教授との距離は離れ、葉月はわけがわからないまま逃げ切れた事に安堵する。
やっぱり、ちょっと失礼だったかな。
さすがの葉月でもそれぐらいは心配することもある。
だが、一晩寝ればそのようなことはすっかり失念するのも彼女のよいところではある。
昨日押し付けられた仕事と、沢渡准教授ののらりくらりとした態度に苛立ちつつ、葉月はいつもの葉月のペースで仕事をこなしていった。
八木青年の気の毒な修羅場話の再演とともに。
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