3/小さな花が咲く時に

「終わりました?」
「……そう見えたら視力検査をしにいったほうがいいんじゃない?」

部屋には八木青年しか見当たらず、今日も不当な労働を強いられている葉月は不機嫌を隠そうともせず答える。
八木助教は二つ三つばかり年上だけれども、立場は違えど雇われる身分としては一番年が近い。彼の童顔と、どこか学生のような雰囲気が抜けないことも相まって、どうしても気安い口を聞いてしまう傾向にある。八木青年も八木青年で、葉月が見かけよりもとっつきやすいとわかると、ずかずかと自らのプライベートを広げ、まるで昔からの友達のように振舞っている。そのおかげか、葉月は聞きたくもない彼とその恋人の一部始終を詳細に知っており、そのせいで幾度かトラブルに巻き込まれた経験もあるほどだ。
いい加減にして欲しい。
そう口にはだせない人懐っこい何かが八木青年にあり、今日も不機嫌ながらも彼の問いに答えてしまっている。

「いいかげん専門の人雇えばいいのに」

最近の授業はパソコンで行なわれることが多い。特に大学院の授業などは黒板に板書する、といったことが少なくなっている。一度資料を作成しさえすれば、教員側はそれを手直しするだけで毎年使いまわしができ、大変便利ではある。便利ではあるけれど、アナログのど真ん中を驀進し、それを一片も恥じることのない教授の手にかかれば、少々困ったことになる。おまけに中途半端に好奇心は旺盛で、自分もあれをやりたい、などと、パソコンを使ってのプレゼンテーションを行なっている教員を指差して駄々を捏ねるのだ。
当然そのしわ寄せは唯一の事務員で、雑用係である葉月に回ってくる。
今日も思いつきで昔の資料を電子化して欲しい、などと午後3時を回ってから言い出すものだから、葉月は危うくヒステリーを起こしそうになった。数字を数えながら深呼吸をして堪えたものの、教授はにこやかに会議に逃げ、何かを察知したのか八木青年もどこかへと消えた後だった。
仕方なしに地味で生産性があるのかないのかわからない作業を繰り返し、とうとう時計の針は午後10時を過ぎてしまっていた。
うるさいのがまた煩く騒ぐなぁ。
家へ帰った時の阿鼻叫喚を思い出し、とりあえず肩の凝りをほぐす。

「事務員さんを雇えるだけうちってまだ裕福っすよ。おかげで俺楽ですもん」

銭勘定から細かい書類整理まで、とかく大学の教員の仕事というのは守備範囲が広い。授業をやって研究をしていればいい、などという世間様の印象は誤解といわざるを得ない。だからこそ、予算に余裕のある研究室は独自に秘書などを雇う事が多い。葉月などがまさにそれで、彼女は伯父のコネで今ここに居座っている。周囲を見渡しても似たり寄ったりで、大抵は教授の娘か、姪御、もしくは親戚か信頼の置ける知人の娘。どうしてこうも女性ばかりなのかと言うと、ただたんに永久に続く仕事ではなく、給料が低い、という2点より、働き盛りの青年を雇うには気が引ける、といった表向きの事情によるところが大きい。もちろん思いっきり裏向きの事情としては、出会いの少ない独身若手教員に出会いの場を与えるべく、若い女性を引き合わせてみようという、あまり堂堂とは語ることができないものがあり、それにはまる男女も少なくはない。当然葉月にもそれを期待する旨はあることにはあるものの、今のところ身近な独身男性といえば、八木青年と、高山教授以下3名の教員ぐらいで、その思惑は今のところ上手くいっているとは言い難い。

「まあ、ねぇ、隣は忙しそうだもんね」
「そういえば、隣から折半したいって話があったんすよ」
「せっぱん???」
「ええ、せっぱん」

葉月の手は休みなくキーボードの上を動き、やっぱり鈴木教授からの電子化命令から逃れられなかった八木青年もコツコツと文字を打ち込んでいる。

「っていうと、私を半分こってやつ?」
「そうそう、それ、曜日で分けるのか時間で分けるのか知らないっすけどね」

予算があまりなく、それでもどうしても事務仕事をこなして欲しい場合は、秘書をシェアするという苦肉の策が取られることがある。葉月が知る限りでは、学科長の秘書は、他の研究室の秘書もこなしており、確かそれらは午前と午後の切り替えでそれぞれが見合う分だけのお金を彼女に支給しているはずだ。それに事務仕事に精通しているベテランともなると、どの研究室も手放し難く、予算と実務をはかりにかけて、このような勤務形態が出来上がったものと思われる。
だが、葉月はというと、ベテランでもなく、そつなくこなすものの、学科長の秘書には遠く及ばない。つまるところ、わざわざシェアを申し出るほどの人材ではない。猫の手も借りたいほど忙しいのだ、といえないこともないけれど、それにしても高山教授の研究室は資金的には潤沢なはずだ、なにも葉月をわざわざ掠め取るようなまねをしなくてもよい。

「ここが用なしなら考えるけど」
「だめっす、無理っす。俺が過労死します」
「そーだよねー、これぜーんぶ八木君の肩にかかったら、他の仕事どころじゃないもんねぇ」
「あたりまえじゃないっすか。誰です?アナログのまんま放っといた人は」
「言って聞く人じゃなし。あの年じゃあ、無理だと思う」
「何言ってるんすか、俺のお袋なんて、ばりばり使いこなしていますよ?」
「まあ、過去を振り返っても仕事減らないし」
「そうっすね、俺これ仕上げないとまた絞め殺される」
「あ?デート?」
「はぁぁぁぁぁ、そうなんすよ。朝迎えに行かないと」
「大変ねぇ。今度は殴られないように、ついでに迷惑もかけないでね」
「……最大限努力します」

二人ともそのまま作業へと没頭していき、葉月の仕事が終了したのが午前零時、まだ終わりそうもない八木青年を一人残し、さっさと葉月は研究室を後にした。
昇降ボタンを押し、エレベーターが登ってくるのを待つ。
相変わらずゆっくりとしたそれは、一刻も早く家路へつきたい葉月の神経を苛立たせる。
ふいに、葉月の影しか写していなかった扉に、別の影がゆらりと揺れ。反射的に後ろを振り返る。
足音もさせないで、いつのまにか高山教授が彼女のわずか1メートルもない距離に佇んでいた。

「……お帰りですか?」
「ええ、工藤さんこそこんな時間まで?」
「はぁ、まあ、色々と」

ニコニコと、微塵の疲れもみせない高山教授は、さらにこちらへと近づいてくる。目的は同じなのだから、仕方がないのだけれど、葉月にしてみれば良く知らない男性と再び狭い空間で二人きり、というのはできれば避けたいところだ。だからといって、今から階段に切り替えるのも自意識過剰でわざとらしすぎる。

「送って行きますよ」
「自転車がありますし」
「危ないですから」
「いえいえいえいえ、大丈夫です」
「遠慮なさらないで」
「自転車取りに来るのとか面倒くさいですし」
「でも」

どこかでしたような会話を繰り返しながら、のっそりとエレベーターは降りていく。あくまでのゆっくりとしたスピードに葉月はどれだけ不自然でも階段で降りればよかったと後悔する。
二人の会話が全くかみ合わないまま、ようやくじれったくも扉が開く。
蛍光灯の灯りに照らされて、エレベーターホールには葉月の良く見知った、だけれどもあまり個人的には会いたくはない人間が存在していた。

「……なにやってんの?」

隣に高山教授がいることも忘れ、葉月はぞんざいな言葉遣いで見知った人間に問い掛ける。
そんな葉月の露骨に嫌そうな気配などものともせず、影二つは喜び勇んで葉月の側へと駆け寄ってくる。
思わず高山教授の後ろに隠れる。
こちらを庇うような素振りをして、高山教授が影へと厳しい目をむける。

「葉月!兄ちゃんが迎えにきた」
「……」

犬だったら存分に尾っぽを振っていそうな兄睦月と、あくまでも無口なままの弟文月が高山教授の後ろに隠れた葉月に近寄る。

「悪いけど、先生に送ってもらいますから」
「そんな!こんな時間に見ず知らずの男と二人きりなんて」
「……だめだ」

喧喧とやかましく吠える兄と、ねっとりと恨みがましい視線を送ってくる弟を無視して、怪訝そうなだけれどもどこか嬉しそうな高山教授の背中を両手で押す。
あっかんべえをしながら、葉月が通りすぎる。
無理強いすると確実にこれ以上嫌われてしまう、ということを理解している兄弟二人は大人しく引き下がる。もちろん見知らぬ男への牽制に睨みつける事を忘れずに。



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7.17.2008

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