工藤葉月は、三人兄弟の真ん中である。
一学年上に兄睦月、二学年下に弟の文月が存在している。親戚を見渡しても女の子どもは葉月一人だったこともあり、誰からも甘やかされ放題甘やかされてきた。
特に母の兄、伯父のかわいがり様は尋常ではなく、望んでいた女の子が生まれなかった伯母とともにまるで娘のように扱われてきた。それは現在も進行形で、葉月は月に何度か伯父夫婦のところへご機嫌を窺いに行く習慣を続けている。葉月がいかなければ、元々同級生同士、という父と伯父の関係性からも、夫婦そろって自宅へ押しかけてくることは必須で、そうなるよりも自分のペースであちらへ赴いた方が良い、と判断した結果である。
今日も伯母お気に入りのケーキを携えて二人と歓談してきたところだ。
相変わらずあの人の少女趣味には付き合っていられない。
そんなことを思いながら、お土産に持たされたどこに来て行っていいのかわからないセンスの洋服を見ないようにする。
葉月のクローゼットにはこのようなたんすの肥やし要因の衣服が幾重にも蓄積されており、それが目下、彼女における最大の悩みの種となっている。
そう、彼女はあれほど蝶よ花よと傅かれるようにして育てられながらも、繊細さなど微塵も身に付けず、それぐらいのことにしか悩みのない、大雑把な、よく言えば能天気な性格にと育ってしまったのだ。
あれだけ両親だけではなく、様々な人が猫かわいがりをしたにもかかわらず、そのことは葉月の性格の核となる部分にはあまり影響をあたえなかったようだ。だからといって両親や伯父夫婦の溺愛が止まるはずもなく、少々の落胆などめげずに見なかったふりをして、伯母は相変わらず葉月に女の子であることを強いている。
「アイス食べたい」
何も他にすることがない日曜日の午後、面白くもないテレビを漫然と眺めながら葉月がこぼす。
その一言に食いつくように家族中が反応する。おまけに、常ならば外出しているであろう兄弟までもが、珍しく同じ空間に存在していたものだから最悪だ。
「何?やっぱりちゃんとしたアイスを食べないと。よーしパパと一緒に買いに行こう」
「コンビニの限定アイスは?結構うまいし」
「ママと一緒にお買い物に行きながら、アイスよね。あそこのお店なら絶対葉月ちゃんも気に入るから」
「……冷凍庫」
恐らく最後の発言は次男がもたらしたもので、冷凍庫の中に葉月のお気に入りの抹茶アイスがストックしてある、と言いたいのだろう。四者四様に好き勝手なことを言い合いながら、当事者である葉月は悉くその発言をスルーしていく。
まともにこの人たちのいう事を聞いていたら、葉月が何人いてもやっていられない。だいたい、父親の案を取れば、母親がすね、母親の案を取れば、父親が泣き出す。兄と弟の意見など、はなから聞く気のない彼女にしてみれば、それらは雑音にも等しく、わざとらしく耳をふさいで叫びだしたくもなる。
「コンビニ行ってくるから」
一瞬自分に意見が採用されたと喜び勇んだ兄を睨みつけ、ついてこないように右手で追い払う。
どうしてこの人たちはこんなに自分に構うのだろう。
そう思いはするけれど、鬱陶しいのは一瞬のことで、葉月はそういう鬱積した思い、というのとは縁遠いところに存在し、次の瞬間にはケロッと忘れて同じことを繰り返す。
工藤葉月にとっても当たり前の一日が今日も終了していく。
何もない一日が大好きだと、言い切ってしまえるほどには枯れている自分に自覚しながら。
「おはようございます」
「おはようございます」
エレベーターの中でさして仲のよくない、だけれども知っている顔と同乗する、というのは地味に苦痛を伴う、ということを今まさに葉月は実感している。
先日イレギュラーな邂逅があったばかりの高山教授と、朝のこの爽やかな時間帯に出会わせてしまったことは少し面倒くさそうな一日を象徴していそうで気が重い。隣同士、ということからも、当然降りる階も同じであり、旧型エレベーターの昇階速度の遅さにうんざりもする。
何かを話さなくては気まずくて、だけれども会話の糸口すら見つけ出すことができないでいる葉月は、とりあえず沈黙する。
視線を合わせることすら憚られ、ようやく開いたエレベーターの中で開の文字が刻まれたボタンを押しながら、教授に先を促す。促されるままゆっくりと箱から降りた教授の背中を見上げ、ばれないようにため息をつく。
ボタンから手を離し、素早く自らの身もそこから廊下へと滑り込ませ、足早に自分の勤める研究室へと向かう。
エレベーターから右に曲がり、すぐにある行き止まりで左右に別れる廊下がみえる。右に行けば彼女の居場所で、左に行けば高山教授の根城である。
当然二人は左右にぱっきりと別れ、それっきりになるはずなのに、これもまた意表をつく質問で葉月は呼び止められる。
「工藤さん。絵、お好きですか?」
「はぁ?」
予想もつかない質問で、葉月のメッキがはがれた素の部分が露出する。
慌てて引き締めながらも、頭の中で今の質問について考えを巡らせる。
絵、絵、絵。
どれだけ考えてもそれ以上のものは浮かばず、彼女の知識は中学までの美術の時間で停止している。文化的なものに興味がないわけではないけれど、どちらかといえばミイラとか土器とかそちらの方向に好奇心が伸びている彼女にとっては、超有名どころの画家数名の代表作しか思い浮かべられない。それをもってして絵が好きです、と、言い切るには厚かましすぎる。
「絵画、といいましても色々ありますけれど」
ぐるぐると考えた結果、無難そうな、だけれどもどちらかというと会話を繋げる方向に失敗してしまった答えを吐き出す。
「ええ、私もそれほど詳しいわけではないのですが」
「はぁ」
「知人からこれをもらいましてね」
そう言って差し出されたのは県立美術館の入場券であり、そこには現在開催されている催し物が大きく印字されていた。
それについてさしたる感想も浮かばず、曖昧に受け答えをすると、困ったような顔をして教授がチケットを引っ込める。
「あまり、興味がなさそうですね、工藤さん」
「はぁ、そういうわけでもあるような、ないような」
分けがわからず曖昧なまま、それでも根性で笑顔を崩さずに対応する。
「また別の機会に」
「はぁ」
最後までそれしか言えずに、葉月は分岐ロで一人取り残された。
午前9時になろうかという研究棟には、ほとんど人はおらず、今のことをどう処理していいのかわからない葉月は、とりあえず忘れることにした。
いつも以上にはりきってサクサクと仕事を進める彼女を、八木は少し恐い、といいながら遠巻きに眺め、鈴木教授はびくびくしながらも彼女に原稿のパソコン打ちを依頼する。
あまりいつもとは変わらず、変わりそうもない一日が終了して、葉月は本当に今朝の出来事を綺麗さっぱり忘れ去っていった。そういうことに裂く脳細胞は一片たりとも余っていないのだと、言わんばかりに。
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