1/小さな花が咲く時に

「たのむよー、葉月ちゃん」

情ない男の声で工藤葉月の朝の仕事は見事に中断される。
時計をみるとすでに午前10時を回っている。彼女の勤務時間は午前9時から午後6時と規則正しく、当然それにあわせて余裕をもって職場に赴いている。
だからといって、それにあわせて目の前の人物も出勤するかといえば、そうではなく、重役出勤もかくや、という出勤時間に現れては、帰る時間を推定する事が難しいほどここに居座っている。それは何もこの人だけの行動パターンではなく、周囲を見渡すとそれぞれに勝って気ままにコアタイムを定めては働いているらしい。
そういうよく言えば柔軟性が高い、悪く言えばわがままな勤務態度がまかり通るのは、葉月の勤めている場所が大学の研究室だからである。
最近はめっきりと労働環境について管理が厳しくなったものの、残業代など一円もでず、労働裁量性に頼る教官たちの勤務時間は、得手勝手に改ざんされ、事務官たちの書類を一応素通りできるように体裁を調える程度で誤魔化されている。ただのよく言えば秘書、実質は雑用係である葉月には関係のない話ではあるが。
葉月は、渋面を作りながら、教授を上目遣いに睨み上げる。曲がりなりにも上司にそんな態度をとれてしまうのは、教授にとってある種の生殺与奪権を彼女が握っているからである。

「またですか?先生。八木さんはどうしたんですか、八木さんは」

さらりと、同僚ともいえる助教の八木の名をあげ、その仕事は葉月の守備範囲外であることを仄めかす。

「いやーー、八木君は八木君で、色々、な」

徹夜明けで近くにある下宿先に帰る時間すらなかったであろう八木の姿を思い浮かべる。
だいたい研究室に一番乗りするのは葉月であり、当然研究室のカギを開けるのも彼女の仕事だ。だが、忙しい時期には彼女より早く来る人間、というよりも、彼女が帰ったあとも居続けた人間、というのが高確率で存在し、そのような時には、ひげ面の彼らたちにインスタントだがコーヒーを入れてやる心遣いぐらいは葉月の中にも存在する。そういえば、今日もくたびれた八木助教にコーヒーを差し入れたことを思い出す。それでも険しい顔は崩さない。

「で?先生、どこからどこまでなんです?」
「はっはっは」
「で?」
「……全部」

発表スライドの原案束を差し出し、申し訳ない、というポーズをとった教授が同時にデータの入ったフロッピーを滑り込ませる。
だいたい、これほどデータ量が膨らんだこの時代に、フロッピーそのものが時代遅れの産物だ。などと、八つ当たりめいた思いまで浮かぶ。

「これを全て動くようにすればいいんですよね?」
「悪い悪い、頼むわ。今日中に」

体をフェードアウトさせながら、さらりと、教授が何時も通り無茶な注文をつける。
つまるところ、これらの発表に使う資料を全てパソコンで発表できる形に移行しろ、というのが仕事の内容で、その仕事のほぼ8割はなぜだか葉月の仕事となっている。
本来ならばこれは葉月の仕事ではない。
彼女の仕事は事務仕事一般であり、専門色を帯びない程度のものであり、給金である。研究室内の事務、備品のチェックや発注、職員の出張の手配、後始末、予算のチェックなどが守備範囲であり、独立化されたとはいえまだまだお役所仕事的な部分が残る事務仕事には、不文律や、明文化されない細かいルールなどがあり、それらの面倒ごとを一手に引き受けるのが彼女の役割といえる。
だが、いつのまにか専門的なソフトが使用できる、という情報がもれ、それに飛びついた教授があっさりと、自分の仕事を彼女に押し付けはじめてしまった。
後はなし崩しに、今日のような状態となること多数。そのたびに彼女は、事務仕事をこなしながらも、教授の面倒を見るはめとなっている。
恐らく今日も残業代のない残業だろう、と、ため息をつきながらフロッピーを立ち上げる。
そもそも、これだけパソコンが普及しているにもかかわらず、どういうわけか教授が人差し指打法のワードソフトを使うことがせいぜいなせいでこのような自体に陥っているわけで、メールソフト一つ使えない教授に心の中で悪態をつきながら、手だけは世話しなくキーボードの上を往復している。
結局のところ、彼女がその仕事を終えた時には、すでに午後9時を回っており、一度タイムカードを押しに事務室へ出かけた以外はパソコンの前を微動だにせず、葉月は無理難題を終了させていた。
夜食を食べている最中の教授へデータを引き渡し、チェックを受けたのち、彼女はようやく帰宅の途へつくことができた。
葉月が所属する研究室が存在する棟と、隣の学科の棟は2階の渡り廊下で繋がっており、その渡り廊下の下には建物にそって自転車置き場が設置されている。自転車通勤の彼女は、疲れた目をこすりながら、自転車置き場へ到着すると、バッグからカギを取り出し、鍵穴へと差し込む。
ようやくこれで一日が終わる。
カチリ、とした音を聞きながら、どっと葉月へ疲労が押し寄せる。
後少し。
ノロノロと自転車にまたがり、漕ぎ出そうとする彼女を、聞きなれない声が呼び止める。

「工藤さん」

ブレーキをかけるのも面倒くさく、あまりスピードが出ていないことをいいことに、両足をべったりと地面につけ、立ち止まる。
あまり動かしたくない首を申し分け程度に傾け、葉月が振り返ると、僅かに光る後方の外灯に浮かび上がる、見覚えるあるようなないようなシルエットが浮かび上がっていた。
葉月が返事をしないせいなのか、そのシルエットは徐々に彼女へと近づき、彼女は右足をペダルの上へのせ、いつでも逃げ出せる準備をする。

「工藤さん、どうしてこんなに遅くまで?」

ようやく顔がわかるほど近づき、彼女は、その声の持ち主が隣の研究室の教授であることをようやく理解することができた。
高山亘教授。
確か隣の先生のフルネームはそうだったに違いない、と、記憶を辿り寄せながら、葉月は曖昧に微笑む。隣同士とはいえ、普段全くお付き合いのない両研究室は、当然彼女も接点がない。未だに秘書と呼べる人物がいないせいか、高山のところの助教に事務仕事一般を教えた記憶はあるけれど、そのボスである教授とは彼女は面識がほとんどない。
だから、このようにわざわざ呼び止められる謂れがわからず、日本人らしく曖昧に笑っていることしかできないでいる。

「また先生の尻拭いですか?」
「えっと、ええ、まあ」

どの程度彼を信用して頷いていいものかわからず、言葉を濁す程度に賛同する。
まあ、これぐらいは言ってもばちはあたらないだろう、という葉月らしい能天気さからくるものだが。

「それにしても勤務時間を超えすぎじゃないですか?」
「はあ」

高山の意図がわからず、なおも曖昧なまま笑顔を浮かべる。

「今から自転車だと危ないですよ?」
「近くですから」
「いえ、最近学内でも色々不穏な噂は聞いていますから」
「いえいえいえ、本当に近くですから」

確かに、学内で不審者に呼び止められた女子学生の事件は、数度耳にしたことがあり、まあ一応若い女性の部類に入る葉月にも忠告めいたことを口にする人間が存在することはした。
だが、彼女の家がこの大学から程近いニュータウンにあり、また、そこまでの路はのどかだけれども外灯も少なくないことから、誰も本気で葉月に危険性を説いたことはなかった。
それを全く面識のない隣の研究室の教授からもたらされるとは。
葉月は感心しながらも、面倒くさいことに巻き込まれないように用心深く言葉を選ばなくてはと思い直す。

「大丈夫ですよ、道も明るいですし、本当にすぐ近くですから」
「いえ、それでも」
「なんだったら兄でも呼びつけますし」

携帯をとりだして高山の説得を試みる。
もちろん、兄を呼び出すなどはったりにすぎない。
葉月にとっては、ここで痴漢の被害にあうよりも、兄と接触する事の方がはるかに精神的負担を強いることになるからだ。

「でしたら、私がお兄様がくるまでここで一緒にいましょう。危ないですから」

だが、そんな葉月の思惑など吹き飛ばすかのように、高山はあっさりとそんな言葉を口にする。
微笑を崩さない隣の研究室の男と、引き攣った笑みを浮かべる秘書。口さがない学生が目撃すれば、次の日とは言わず、メール機能などを駆使して本日中には根も葉もない噂が飛び交うかもしれない。現実にそういった意味を込めて彼女のような人間をこういう場所に雇っている雇用者側からすれば、願ったり叶ったりの噂であり、否定するどころか煽りかねない。
そういう最悪の予想が頭の中に駆け巡りはするものの、どれだけ待っても呼んでもいない兄がくるはずのない葉月にとっては、その場から動けないでいる。
この場をどうやって切り抜けようか、あまり深くは考えない頭を総動員しながら、冷や汗を流している葉月に救いの声が掛かる。

「あっれー?工藤さん、まだいたんですか?」

目の下に隈を作った助教の八木がエレベーターホールからこちらへと歩いてきてくれたのだ。
彼は原付自動車で通勤をしており、そのバイクも当然葉月が自転車を置いてある場所に駐輪されている。
このときばかりは、普段どちらかというと年上の癖にどこか軽んじている八木青年が救いの神にも思える。

「そうだそうそうそうそう、私、八木さんに送ってもらいますから、ね、なら大丈夫だと思いませんか?」

耐え難い沈黙を破り、八木という発泡スチロールで出来た、どこからどう見ても頼りない浮き輪に飛び乗る。平生ならそんな脆弱な救難道具には目もくれないのだが、贅沢を言っていられる場合ではない。

「……そうですね。その方が安心です」

結局何がしたかったのかがさっぱりわからない高山教授は、八木を一瞥して速やかに自分の居室へと引き返していった。

「なんすか?あれ」
「さぁ?」

二人きりという気安さもあり、軽い口調で言い合いながら、結局葉月は校門のところまで八木と一緒に帰宅することにした。
何かを話したかった気分でもあり、何も話したくなかった気分でもある。
八木はそんな葉月の心境などお構いなしに、遠距離恋愛中の恋人についての相談をもちかける。それにどこまでもいい加減に答えながら、あの悋気な彼女が再びこのことで怒りを爆発させなければいいのに、と、以前さっぱりわからない理由で言いがかりをつけられたことを思い出しため息をついた。
普段よりも2時間以上遅い帰宅は、母親の愚痴と、兄の説教と、弟の無言のねっとりとした非難がましい視線に出迎えられた。
それらをばっさりと切り捨て、お風呂に入った後は、葉月は今日のささいで不可解な出来事はすっぱりと忘れ去ってしまった。
こういうところが葉月らしくもあり、禄に夢も見ずにぐっすりと寝入ってしまった。
次の日から、そのささいで不可解な小さな出来事がちょくちょく我が身に降りかかることも知らずに。



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7.5.2008

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