09. お願い、わらって

 レナが失踪したからといって、ディリの生活が変わるわけではない。朝は出勤し、仕事をし、同僚とやりとりをし、上司に報告する。そんな生活の中、親友であるカルが、いやに平静にしていることが、ディリは気に食わない。
その済ました顔を見れば見るほど腹が立ち、思わず彼に喧嘩を売る。
突然親友の胸倉を掴んだ貴族の息子に、室内にいる人間は、息を呑んで見守る。どちらかというと優等生的立場にいるディリのことを、つまらないやつだ、と揶揄していた連中は、遠慮なく面白そうな表情を浮かべている。

「おまえ、どうしてそんな平気な顔してるんだ!」

理由、をわかりすぎるほど理解しているカルは、甘んじて彼の暴挙を受け入れている。だが、その目は親友に向けるようなものではなく、どちらかといえば軽蔑の色が混じっている。

「おまえ、結局何にもしてやらないんだな」

カルの言葉に、勢い込んでカルに詰め寄ったディリの気持ちがしぼんでいく。
ディリの手を払い、逆に彼の襟首を掴んだカルは、上司に目配せし、室内を出る。
さすがに、王宮のど真ん中、近衛団の居室での暴力沙汰は避けたいところだろう。また、今からする会話は、周囲に聞かせたいものでもない。
好奇心に満ちた視線を振り切り、二人は人気のない裏庭へと歩き出す。王家の人間が大切にしている温室がある庭とは異なり、ただ建物を建て増ししてきた都合上どうしても出来てしまった空間に、無理やり作り上げた庭は、人が眺めるようなものは何もなく、ただみっともなくならない程度に草が刈り取られているだけのものだ。
その場で、カルは、ようやくディリに対して口を開く。

「レナは、おまえのことを好きだって言ったんだろう?」
「どうして」
「そんなことぐらいわからなくってどうする。俺はレナのことを好きなんだぞ」

平然と答えるカルに、ディリはたじろぐ。
自分は、これほど自然に、彼女への気持ちを言葉にすることができるのだろうか、と。

「結局また逃げられたわけだ」

黙ってしまった親友にカルは、痛烈な言葉を投げかける。そのカルも、どこか憂いを感じさせる表情で、ディリを直視している。

「おまえは、どうしたいんだ?」

すでに視線すら合わせられなくなったディリには、戦場で勇ましく戦っていた面影はない。一度は逃げ出したはずの家名にとらわれ、己の中の真実にたどり着きさえしていない。
カルも、彼らのような立場の人間が、気持ちだけで行動できるわけではないことは知っている。ヴァレス家のような名門は、その血を継ぐべく、適当な家との結びつきが大切なことも知っている。
だが、それ以上に、彼はディリがひた隠しにしている望み、に気がついている。
それはレナを思う男として、また、一番の親友としてディリの近くにいた人間だからこそわかることだ。

「ああいう子は、お前のことなど忘れて、結構あっさり嫁にいったりするもんだぞ」

手に職のない自分が働ける場所を、とあのようなところを選んだレナではあるが、心底そこで働きたかったわけではない。条件と気持ちさえ整えば、意外と就職するような気持ちで嫁ぐことはありえる。何も恋しい気持ちだけで結婚するわけではないのは、お貴族様だけではないのだ。
カルの言葉に、ディリが反応する。

「今も楽しく働いているみたいだし。すぐにでも嫁に欲しいっていうやつは山ほどいるらしい」
「おまえ!」

再び、カルの胸倉を掴んだディリは、腑抜けの塊だったような先ほどとは違い、怒気を漲らせカルへと詰め寄る。

「なんで知ってるんだって?」

ディリの聞きたいことを代弁する。

「あたりまえさ、レナはディエに頼ったからな。なんだかんだ言って、彼女は強かだよ」

結婚を拒んだ男の妹を利用する。
傍からみれば厚顔ともとられかねない行動も、カル自身はさほど気にしてはいないようだ。どちらかといえば、どういう理由であれ彼女とつながりを持つことができればそれでいい、とまで考えていそうだ。

「どこで・・・・・・」
「娼館、と言いたいところだが。妹がそんなところを紹介するわけないだろう?」

見事なぐらいに変化する顔色を、カルはまるで楽しみながら、さらに惑わせる。

「あのな、ディリ」

女どもが大騒ぎするような魅惑的な笑顔をカルが向ける。同性とはいえ、一瞬見惚れてしまったディリの左頬に衝撃がはしる。
カルが、その拳を己の頬にあてたのだと理解したころには、鋭い痛みは鈍い痛みへと変わり、熱まで帯びていた。

「あやまらねーよ。おまえもいいかげん態度をきめやがれ。じゃないと、今度こそあの子をさらうぞ」

最後通牒に、ディリは草むらの上にしりもちをつき、頬を押さえながら親友を見上げる。
カルはにやり、とした笑みを残し、職場へと戻っていった。
残されたディリは、頬の痛みを感じながら、レナの事を考える。
自分は、彼女をどう思っているのか、いや、彼女をどうしたいのか。
ヴァレス家の事を抜きにしても、正直なところよくわからない、というのが情けないものの答えだ。
彼女を手放したくはない。
あの肌を誰にも触れさせたくはない。
だからといって、彼女を自分の中でどういう枠に収めていいのかすらわからない。
ディリは、結局途方にくれたまま居室へ戻り、同僚たちの好奇な視線を浴びることとなった。



「いらっしゃーい」

元気のよい声が聞こる。
大通りからやや外れた、それでもそれなりに人通りが多い通り沿いにある食堂は、繁忙期なのか歩き回る店員と、客とのやりとりが、喧騒のようにあふれ出している。
目に付く客層が労働階級であることから、そこは安価な定食屋なのだろう。一日の終わりにわずかな銭をもってささやかな楽しみを得る町民たちであふれ返ってきた。
中でも、とくに力仕事をする男たちが多いのは、その店が味も量も価格も彼らを満足させるに十分なものだからだろう。
戦時中以外は、そういった店とは無縁なディリは、酷く場違いな風体で、その店をぎりぎり見える場所から伺っていた。
入れ替わり立ち代り客が来る店では、レナがきびきびと盆をもって働いており、また少々の酒を扱っているのか、ほろ酔い加減の男どもから彼女に声がかかる。中には、彼女の尻を触る不届きものまでいる始末で、ディリは思わず剣を抜いて、そのものに切りかかりそうになる。
もっとも、そういう男にはきちんと制裁が下されるもので、周囲の男連中から、こちらまで響き渡る程の勢いで背中を次々と叩かれていた。
通り過ぎる人々が、ディリを振り返り、また物売りが彼に品物をもって訴えかけるのを振り払い、彼はその場に立ちつくしていた。
ややもすると、異質な、だが、目的のわからない男を、遠巻きにし始める。
いくら優男とはいえ、刀を持った男は剣呑である、ということを思い出したのか、動じない子供の物売り以外は、彼に近寄ってこなくなった。
やがて日がすっかりと暮れる。
香ばしい匂いだけではなく、安物の白粉や香水の香りがディリにまとわりついてくるようになる。
ディリは、ただひたすら、懸命に働いているレナだけを見つめ、だが、動けないでいた。
ここまできて、彼は彼女の手をとって連れ帰る、ということができない。
しばらくすると、子供に手招きされたレナが、店の外へとやってきた。
子供はしきりにディリが立つ方を指しており、レナの後ろには男どもが鈴なりとなってやはり、彼の方へと視線をよこす。
ディリはたじろぎ、だが、ようやくレナの眼を直視する。
レナは、今まで笑顔で接客をしていたというのに、綺麗な顔に眉根を寄せ、あからさまな不快感を表す。そして、子供と客に何かを告げると、彼らを促して店へ戻っていってしまった。
物売りとは異なり、一筋縄ではいかない自分自身を売る女性たちが、ねちっこい視線を向け、彼の周りをしなを作りながら歩く。 彼はそれを冷たくいなしながら、ようやくレナの働く店に背を向けた。

 ほどなくして、彼はヴァレス家の馬車へたどり着く。
彼は、ようやく、己の心の底から、たった一つの願い、を見つけ出すことができた。
それは、レナに笑っていてほしい。
ただ、それだけで単純な心からの願い、を。

8.31.2010
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