08. 身分も畏怖も経歴も大層な飾りも、何も貴方を助けない

 ほどなくしてレナは、単独でヴァレス家の門を再びくぐった。彼女の態度は至極堂々としたものであり、令嬢のまねごとをして儚げに笑っていた彼女の面影はすでにない。
また、必要最低限の侍女しかおかず、数少ない使用人たちで運営する屋敷はコゼレアが存命だったころとは異なり、非常にひっそりとした佇まいをみせている。
懐かしそうに屋敷内を見渡すレナがディリの前へ座る。先日見かけたときとは異なり、おろされた髪がさらり、と彼女の頬に触れる。子供がするような髪型に押し込めたものの、隠しきれない色香が、ディリを惑わせる。

「お久しぶりです」

レナが好きだった茶器で茶が供され、彼女は嬉しそうにそれを手にし、ゆっくりと口に含む。

「ブラドノル家にいるそうだな」
「残念ながら」

レナの表情が若干歪み、悔しそうな顔をする。
彼女が今、本意であの屋敷にいないことに少々安堵する。

「今度は、やつの囲いものになる気か?」

裏腹な言葉が紡ぎだされ、ディリは舌打ちをしたい気持ちにかられる。

「そういうつもりではありませんが」
「多数に体を売るのも、一人に売るのも変わりはないだろう?」
「カルは、そういう風に扱っていい人ではありませんから」

一定のカルへの好意をにじませたレナに、ディリの心が硬直する。

「ふん、まあ、ちょうどいい相手だな。面倒くさい係累はいないし、うるさくなりそうな小姑は懐柔済みときた」
「いったいあなたは何が言いたくて私を呼びつけたんですか?」

呼び捨てをされる友人との差を見せ付けられたようで、ディリはますます頑なになっていく。

「一応説得しろ、とだとさ」
「ああ、結婚に同意しろ、ってことですか?」
「そういうことだ」

まだ熱い茶を飲み干す。
喉が焼けるような感触も、今の彼にとっては大して気にならない痛みだ。
レナは呆れたような顔をして、ため息をついた。これほど表情が豊かだということも、彼はまるで知らなかった。屋敷にいたころの彼女は、常に儚げな雰囲気で微笑んでいたからだ。

「私の背中には醜い火傷の跡があるって、知ってたよね?」

戦争のおり出来た傷跡は、今でも恐らくレナのあちこちに残っているのだろう。年頃の娘らしくそれを気にする彼女は、服で見えない背中を指差し、彼に告げる。

「そんなものを気にするようなあいつじゃないだろう」

癪だが、親友が言いそうなことはよく理解しているディリが、彼を弁護する。レナのことでかき乱されているディリではあるが、カルのことを信頼し、敬愛していることも嘘ではない。だが、なによりレナのそのとってつけたような理由に、真実を告げていないことは、いくらなんでもディリにも理解できる。問い詰めるように、言を重ねる。

「それに、そんなことを気にするようなおまえじゃないだろう」
「気にしますよ、それぐらい。だからあの店を選んだのに」

彼女が街中の高級な店を選ばなかった理由を思いがけず知る。そのせいで、彼はカルに先を越されたのだけれど。

「本心を言え。ここには俺以外誰もいない」

遠巻きに蔑むような視線を投げかけていた侍女はもういない。
もっと早くこうすべきだったと、彼女があっけなく出て行った今は思う。
彼女にとって、この屋敷は決して、居心地のよいものではなかったのだから。
レナは、虚空を凝視する。
沈黙が部屋を支配し、窓から漏れ聞こえる鳥の声が僅かに響くのみだ。
やがて、レナは意を決したかのようにそのかわいらしい唇を動かした。

「あなたが好きだからよ」

だが、もたらされた答えは、ディリの理解を超え、目を見張ったまま動きが止まる。

「そういう顔をされたくなかったから言わなかったんだけど」

彼女は立ち上がり、軽くのびをして歩き出した。
髪が揺れる。
その黒色は、彼を捕らえて離さない。

「そういうことだから、また私は消えます。じゃあね」

前回は、一度は声も掛けなかった娘に、ディリは必死の思いで体を動かし、手を伸ばす。
その手は、なんとか彼女の袖を掴み、力のまま引っ張られた彼女は、引き寄せられるように背中から彼へとぶつかった。

「だめだ」
「どうして?」
「だめだと言ったらだめだ」
「私はただの捨て子なのだから、もう一度捨てればいいでしょう?あなたの人生には関係がない」
「違う」
「家名もないただの孤児でしょ?いらないでしょ?もうここの家には私にこだわる理由なんてないでしょ?」

矢継ぎ早に突きつけられる彼女の詰問に、ディリは一向に答えることができない。ただ、抱きしめる腕を強めるだけだ。

「それとも囲いものにでもするつもり?」

無言で首を横に振るディリに、レナはためいきをつく。

「おまえは、俺を好きなんだろう?」

ようやく口に出した言葉は、無粋なもので、女一人を口説けない己を情けなく思う。

「そうよ、情けなくって優柔不断で、最低だけど、好きになったものは仕方がないじゃない!」

あまりないいざまではあるものの、一々全てが納得できるものなのだから、ディリは反論しようがない。
彼女を拾ったのも、中途半端に扱ったのも、屋敷の中で孤立させたのも、そして手放せないのも全てが事実だからだ。

「だめだ」
「離して」

駄々を捏ねた子供のように、ただただレナの手を離さそうとはしない。
レナは、ややあって抵抗をやめる。

「だったら、一度抱けば諦めてくれる?」

どこで覚えたのかもわからない物言いに、ディリが再び目をむいたまま固まる。
だが、彼女の肌の柔らかさを知った彼は、あっけなく彼女の誘いに乗る。

「でも、私はただの拾い子だからね、それは覚えておいて」

念を押した彼女の真意は、ディリにはわからない。
白い肌に無数に広がる、火傷の傷跡ではない何か、に口付けをし、ディリは甘美な匂いに酔っていく。
ここまできても彼は、なりふりかまわずレナを口説き落とすことも、家名を捨て彼女を強引に奪っていくこともできない。
次の日、彼女は再びあっけなく姿を消した。
ディリの心にはっきりとした傷跡を残して。


8.27.2010
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