02. ただ笑っただけの顔が、どうしてこんなにも忘れられないのか

「ディリ様」

鈴を転がしたかのようなかわいらしい声が響く。
そう呼ばれた男は、僅かに口角を上げ、その声の主に答える。
戦後、いなくなった弟に代わりヴァレス家の家督を継いだ彼は、この家の主となった。
歴史の古いヴァレス家は、王家に継ぐといわれる公爵家ほどではないものの、王宮ではそれなりに名を馳せた名家だ。だが、その家も彼と母親を残し、ほとんどの血族が死に絶えてしまった。
それはどちらかというと国家への忠誠心が高いヴァレス家の人間が、騎士として戦争に参加したためであり、また、政情に疎い彼らが、ことごとく策略にはめられ、前線へと送られたからに他ならない。現に、ヴァレス家の長子であった彼が、あれほど戦禍が激しい場所へ派遣されたのは、彼らの思惑通りであった。当てが外れたのは、彼がその戦地をくぐり抜け、生き残り、さらには宮廷へ返り咲いたことである。戦功著しい彼は、受け継いだ家柄だけではない地位を押し上げ、今では戦時中に国の足を引っ張りかねないような策を練っていた連中は、まとめて日陰の身となっている。
今や、ヴァレス家は歴史の中で最も栄華に満ちた時を過ごすこととなった。
だが、それは対外的なごく表層であり、内実のヴァレス家は、ひどく衰退していた。

「ジェゼリィ、お兄様でしょ?」

先ほど彼を呼んだ少女が、年嵩の、だが昔日は美しかっただろう美貌を残した女に窘められる。
彼女は、ディリの母であり、ヴァレス家の先代当主夫人であるコゼレアだ。
ヴァレス家と同じく、名家から嫁いできた彼女は、酷く気位が高い。嫁いだ後、次々と産み落とした子供たちに対してもそれは同じであり、愛情よりも見栄を重視した教育は、彼らに様々な弊害をもたらした。その一つが、長子の反抗であり、騎士団への入隊であるのだが、それもまた昔の話である。母に依存していた弟は死に、唯一溺愛されていた妹もすでにいない。
その妹の名で呼ばれた少女は、頷き、今一度「お兄様」と彼を呼びなおす。
白髪の混じる金の髪の婦人に寄り添う黒髪の少女。
親子と言われれば、その美貌以外に共通点のない彼女たちは、やはり血のつながった親子ではない。当然、ディリとの血縁関係も否定される。
目で彼女へ頷き返し、彼女は花のように笑った。
彼女はあの日、彼が気まぐれに拾ってきた子供だ。
看護の女性から子供が女の子であることを告げられ、絶句した彼は、どういうわけか彼女を抱え実家に帰ってきた。戦争終結から数ヶ月がたった実家は、すでに日常が取り戻されてはいたが、ただ一人、母のコゼレアだけは昔に心を置いたまま、夢と現実を行き来していた。
それは、ただ人形のようにかわいがっていたディリの妹ジェゼリィが死んだことに起因する。
妹は、甘やかされるままわがままに育った少女ではあったが、母譲りの美貌があと少しで開花する、まさに蕾のような少女であった。早くに家を出た彼は、妹が癇癪を起して使用人に怒っている姿しか記憶にないが、それでも肉親の情はある。彼女が流行り病であっけなく死んだときには、それなりに悲しかったことを覚えている。
だが、淡白なほかの家族とは違い、まさに溺愛していたコゼレアは、彼女の死を認めることができず、また間髪おかずに戦が要因で亡くなった息子の死が彼女を追い詰め、コゼレアは夢の中に留まるようになってしまった。
そんな彼女をある種別の夢へと引きずり込んだのは彼が引き取った少女、レナであり、彼女をジェゼリィだと認識しているコゼレアは、レナをジェゼリィとして溺愛することで、ようやく日常生活を送れるだけの正気を保っていられるようになった。
それをよしとはしないものの、とりあげれば最悪の事態を起しかねない状態を、ディリは黙認し、また彼らに恩返しをしたいと考えるレナは、コゼレアが望む通りの令嬢を演じている。
その危うい均衡の上にたった平和がいつまで続くのかはわからないが、ディリはずるずるとその現状を容認している。

「ジョゼリィ、私のジョゼリィ」

レナを娘の名で呼び、近くへと招く。椅子に座ったコゼレアの膝上に頭を寄せ、レナは娘らしく甘えた雰囲気を出す。
満足そうにその髪をなで、コゼレアが微笑む。
偽の団欒に、ディリは背けたくなる思いを押し込める。
やがて、睡魔に捕らわれたコゼレアは使用人によって寝室へと運ばれ、母娘で茶会をしていた庭には、彼とレナだけが残された。



「変わらず、か」
「はい。ですが、最近少し眠っている時間が多くおなりです」

兄と呼ぶよう命じられたレナは、それでもディリに対しては一歩引いた態度を崩すことはない。
自分が捨て子で、この家とは何の関係もないことを常に意識しているからだ。
彼女一人この家へ抱えたところで、すでに要職につき、代々の財産を抱える彼にとっては造作もないことだ。だが、レナはそれを素直に受け取ることをよしとはしていない。
自分の仕事はジョゼリィの代わりであり、自分がこの家の一員となったわけではない、と、線引きをしているようだ。どちらかというと使用人たちと同じ身分だと考えている彼女だが、コゼレアの意識が彼女に向いている間は、彼女はまさしくこの家の令嬢であり、気安く彼女に声を掛けられる雰囲気はない。
だから、レナの立場は非常に曖昧で不安定なものであり、使用人も、いや、連れてきた本人であるディリでさえどう扱っていいのか立場を決めかねている。

「あまり長くはないのかもしれないな」

現実を見ず、夢へと逃げた母は、心のどこかで本当の娘のところへ行くことを願っているかのように徐々に体が衰弱している。
厭っていた相手だとはいえ、肉親である母が弱っていることを放置してはおけず、彼は、一度は捨てた家へきちんと帰宅している。
それが、花のような少女のせいである、という揶揄が聞こえないこともないが。

「おまえには、すまないと思っている」

もっと早くに手放すべきだった、という言葉を飲み込む。
まだ子供だった彼女の傷が癒え、それなりの家へ養子として送り込む話はいくらでもあった。
戦争で子供を失った家は多い。
その中で、レナのようになんの係累もない、正直に言えば面倒くさくない子供は需要があったのだ。まして、彼女はヴァレス家の保護があり、さらには一際美しい子供であったからだ。
男か女かもわからない幼さでありながら、どちらに育っても美しくなるであろう顔立ちは隠せるものではなく、彼女を一目見て気に入った、という養い親はいくらでもあったのだ。
その全てを断ったのはディリ自身だ。
彼らの些細な瑕疵をあげつらい、振り落とし、最後には誰も残らなかった。そうこうしているうちに、コゼレアがレナを娘と思い込み、今の状態へとなだれ込んでしまった。
それでも一度、彼女たちを切り離そうと試みたことはあった。
だが、半狂乱となったコゼレアが自殺未遂をし、また、それ以上にどこか寂しさを感じてしまったディリが、母を言い訳としてレナを手放せなくなってしまったのだ。
結局、レナという安全装置で辛うじて生きている母と、それを言い訳にレナを手元に置き続けるディリという図式が成り立ってしまった。 だから、いくらレナに感謝の言葉を告げられても、彼は後ろ暗さを抱えていくだけなのだ。

「感謝しています」

そうとは知らずにレナはただ素直に感謝の言葉を述べる。
戦争後、彼女のような孤児はいくらでもいたのだ。彼らの生活は今も豊かとは言えない。そのまま犯罪に手を染めるものさえいる。 ここのところの凶作で、ローレンシウムの治安は悪化の一途を辿っている。だから、ただ拾われ、屋敷へと匿われ、食べていくことができる生活にレナは感謝しているのだ。
そんな彼女に曖昧に頷き、ディリは彼女を伴って屋敷へと入る。
これから夕食を共にするのだ。
彼女の好きな果実が食後に添えられると知り、レナが微笑んだ。
昔、彼女が始めて見せた笑顔と重なり、その面影は彼の胸から消えることはない。
他のどんなに華やかな令嬢たちが笑みを浮かべても、彼の心を動かすことは叶わないというのに。

8.6.2010
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