「なに?」
「いえ、あの」
顔面蒼白となり、しどろもどろになった文官にニラノが詰め寄る。
文官としてもそつなくそれをこなしていたユリフィル隊長がいなくなり、それらを全てこなさなくてはならなくなったニラノ将軍は、日々その不機嫌さを増していった。
もともと、剣筋にしても戦術にしても、どこまでも無骨でまっすぐな彼は、その容姿から想像するとおり、こういった細々と仕事は非常に苦手である。
機嫌が悪くなりっぱなしの主の傍らでは、従者が、そのあおりをくらいながらも、書類仕事を補佐していた。
だが、火急の用だ、と、王宮からたてられた使者を前に、今までの不機嫌など、その言葉に似つかわしくないほどかわいらしいものだったと、慣れたはずの従者ですら、顔面を強張らせている。
しかし、それほど、使者がもたらした情報は、鬼将軍ニラノをして、十分あわてさせるほどのものだった。
「ですから、あの、ユリフィル隊長が、行方不明だと」
「どういうことだ!」
激昂するまま、使者に詰め寄ったニラノを、申し訳程度に従者が後ろから押しとどめる。
「ニラノさま、落ち着いてください。彼を怒鳴りつけてもどうしようもありません」
その声が聞こえたのか聞こえなかったのか、尚もあの面相で使者に詰問する。
「新しく入った騎士をかばって、あの」
「あいつか!」
今度の任務には不適格だと将軍が判断した男を、隊長は大丈夫だと判断して随行させた。
結局、最後に承認したのはニラノなのだから、ニラノは、歯軋りする思いをなんとか内でこらえる。
「川に落ちまして」
「で?」
「今だ、あの。申し訳ありませんが、もうおそらく亡くなられて」
その言葉を口にした途端、使者は無言で睨みつけられた。
平和なときを経て、争いごとのない部署につき、穏やかにすごしてきた文官は、腰を抜かし言葉を失った。
舌打ちをし、後の始末を全て従者にまかせる、という視線を彼に向け、ニラノは屋敷へと走り出す。
そこには、ユリフィルが愛してやまない、彼の一人娘が、その安全のため身を寄せている。
その彼女に、使者が伝えてきた全てを、ニラノが伝えなくてはいけないのだ。
上官とはいえ、いつまでも慣れないその仕事を、まして平和なときになったはずのこの時代に、最も信頼していた相手の生死の不明を、その娘に伝えなくてはならない。
皮肉な運命に、ニラノは己の両拳を握り締める。
主であるニラノから直接もたらされた情報で、ティナは声も出せずに絶叫し、気を失った。
全ての力を失ったかのような体を抱きあげ、その小ささ、軽さに、己が伝えた出来事の残酷さを思う。
その日からしばらく、ティナは言葉を失い、高熱でうなされるようになる。
まれに発熱し、マグヴァルンや執事を驚かせた彼女だが、それは幼い子供特有のそれ、であると高をくくっていた彼らに、また新たな心配の種をもたらせた。心因的なものが原因とは言え、それほど頑強とはいえない体に、今のこの身体の状態は負荷が高い。どこまでも丈夫であった、亡くなった兄とマグヴァルンしか知らない執事はうろたえ、また、己の体を基準に考えていたマグヴァルンをも、後悔させることとなった。
子供は死にやすい。
年寄の誰かが言った言葉が、ニラノ家に重くのしかかる。
幾日も眠れぬ夜をすごした彼らは、ティナの枕元に置いてある守り石、彼女の実父が与えたそれが粉々に砕けていることを発見する。
その原因を究明しようとした矢先、持ち主のティナの容態がもちなおし、やがて彼らはそれの存在そのものを忘れ去ってしまった。
ティナの体が快方に向かい、ニラノ家に平安がもたらされたころ、マグヴァルンの執務室に、珍しい来客が入り込んでいた。
仕事しかできないような質素な部屋に、その人間は不釣合いな衣装と香りでやってきた。
「孤児院へ?」
「はじめからそう言ってますでしょ?もともと血筋でもなんでもないのですから」
今日ニラノに会いに来たのは、彼の父方の叔母だ。
他家へ嫁いだ彼女とは、そう頻繁に会う仲ではない、いや、どちらかというと疎遠な仲だ。そんな彼女がわざわざこのときにやってきたのは、彼女の生家、ニラノ家に縁もゆかりもない子供が入り込んでいる、という噂を耳にしたせいだ。
その子供とは、ユリフィルの一人娘、ティナのことなのだが、保護者が遠征している間に預かることと、保護者が行方不明になった後も預かり続ける、ということは意味が大きくことなる。ましてユリフィルは行方不明どころか、王宮では死亡したと判断しているのだ。
まったく身寄りがなくなったティナを預かり続ける不都合は、現実として大きな問題である。
まして、マグヴァルンは独身だ。
妻も子も存在しない。そんな彼が、まだ子供とはいえ少女を、その家に匿う、といったことに悪口をささやく輩が出てこないとも限らない。
今はまだ、あの伝説の隊長の死、という悲劇が将軍のその行為を、無理からぬこと、と好意的に受け止めるものが大多数ではある。しかし、人の噂は自分勝手なものだ、その噂が、いつ負の方向へ行くかは、数々の戦をこなしたマグヴァルンですら予想できない。
「あなたが早々に奥方を決めていれば、こんなことを申しあげるつもりはなかったんですけどね」
戦争のせいで、ニラノ家は、非常に血縁が少ない。父母や兄、母の兄弟たちですら、戦火にまかれ、その命を失った。どちらかというと争いごととは遠い家族が死に、好き好んで自ら中心地へと驀進していったマグヴァルンが生き残るとは皮肉なものだ。まして、兄の死のせいで、ニラノ家の家督を継ぐ、などという面倒なできごとまで引き受けなくてはならなくなったのだからなおさらだ。
「まあ、一度この釣書を見てからお話をしましょう。いいですね、あの子は孤児院へ、これは夫の言葉でもあります」
叔母の夫、義理の叔父は、彼が頼りにしている数少ない人間の一人だ、その言葉とあっては、たとえ苦手な叔母であろうとも無碍にはできない。
「ですが、あの子は」
「他人でしょ?まして女の子なんて」
そう遠くない日に、人々が中傷するであろう内容をあっさりと口にし、叔母はまるで汚いものでも見るかのような目をマグヴァルンに向ける。
「血縁もいないのに」
「だからこその孤児院でしょ?アルゴ王がどうしてそういう福祉を充実させたのかわからないの?」
終戦において、最も被害を受けたのは一般国民だ。
親を失い孤児になった子供たちの数も多い。
そういった子供たちに適切な養育環境と、教育を与えることを目的とし、アルゴ王は真っ先にそこから手をつけていった。
そのおかげで、今の孤児院は、戦前のそれとは異なり、かなりその住環境、生活水準ともに上昇した。
だが、やはりそこには限界があり、今マグヴァルンがティナに与えられる程度の生活が、孤児院でティナに与えられることはない。
「そういうことだから、色々あなたも考えてちょうだい、いいですね」
鬼将軍にそこまで強気の発言ができる人間、まして女性を始めて目にし、従者は内心驚き、どうにか顔に出さないように婦人を見送る。
残されたマグヴァルンは、いくら苦手な叔母に言われたからといって、ティナを手放す、といった一言をどうしても発することができなかった自分の心理について混乱していた。
当初、ティナを預かることに難色を示していたのはマグヴァルン本人だ。
期間限定、まして信頼している相手からの頼みであり、それが最善であることからも受け入れる、と言う判断を下した。預かっている間も、とりたててティナと接触があったわけではない。
朝食は共にするものの、それ以外は、おそらく執事の方がよほどティナと一緒にいる時間は多かっただろう。
だが、マグヴァルンは彼女の「おはようございます」が聞けない生活がくる、ということがすでに想像できないようになっていた。いや、想像したくはない、という心理状態に置かれていた。
親友を失い混乱し、その親友の娘を失いそうになってさらに混乱する。
余り深く考えることをしないマグヴァルンは、数度頭を振り、無造作に机の上に置かれた釣書を屑箱へと投入した。