「……どういうことだ?」
ようやく部隊の選抜が終わり、隊長以下、十名のものが任務にあたることになった、と、ユリフィル隊長が挨拶にきた。
上司であるニラノに、それをするのは当たり前のことだ、当たり前のことではあるが、そうではないものを目の前にして、将軍は短く一言不満を述べたまま、やはり黙り込む。
部隊の詰め所、ではなく、将軍個人の屋敷内、さらには応接室、などというものに押しかけてきたユリフィルは、勝手に茶を入れ、さらにはもう一人の人物へとそれを勧めている。
「いやー、だって物騒でしょ?」
マグヴァルンが将軍職に就いたとはいえ、彼らの間はあくまでも気安い。
戦場においては誰よりも安心できる相手同士である、ニラノとユリフィルは、よほど公の場に立たない限りは、このようなものの言い方を通している。
女中も手伝いのものも、誰一人入り込まない応接室で、ただユリフィルの声だけが響く。
「それに、この子は一通りのことができるし、結構便利だよ?置いておくと」
間抜け面で隣にいる人物の頭をなでる。
「だが」
「あ、でも手を出しちゃだめだよ、いくらティナがかわいいからって。僕のことおとーさんって呼びたかったら別だけど」
余りの言い草に、完全にほうけた顔をして、次にニラノはユリフィルを睨みつける。
隣にいる人物、ユリフィルの娘ティナは、それに臆することなく、二人のやり取りを楽しそうに見守っている。
「もっともではあるが」
「でしょ?子供でもいいってバカがいるかもしれないっしょ?そういう嗜好まで試験できるわけじゃなし。それにだいたい子供を一人だけでおいとくわけにはいかないしさー」
砕けた調子ではあるが、ユリフィルは、任務で留守にする間のティナのことを心配し、こうやって上官であるニラノに頼み込んでいるのだ。
ユリフィルに妻はいない。
今は、ではなく、昔から、彼のそばに特定の女が存在していた時期はない。
そのせいか、戦争が終わり、突然「僕の子ども」といって、ティナを連れてきたときには、さんざん噂されたのだ。幼児誘拐だの、略取だのと。まして女の子であったせいか、今までの余り良くない女性遍歴から、理想の女を育てようとしている変態野郎、という不名誉なあだ名まで頂戴した始末だ。今ではその親ばかぶりから、昔の女の一人が生んだ子供を育てるけなげな父親、というよくわからない評判がたっている。それもこれも彼に同情心と、幾ばくかの下心を抱く女性たちからの評価ではあるけれど。
「どうして」
「だって、ここが一番安全でしょ?」
「だが」
「ティナもどっちかっていうと人見知りする方だし、屋敷に人はいない方が都合がいいの」
「だが」
「自分のことは自分でできるし。困らせないって、絶対」
口下手な将軍を圧倒するべく、ユリフィルが続ける。
「ここの家主を知って襲ってくるばかって、ちょっと思いつかないんだけど」
ニラノ家は、中程度の貴族の屋敷にしてはやや大きく、それの反比例するかのように屋敷で働く人間の数が極端に少ない。主を怖がって、というのが表向きの理由だが、もともと人を信用していないニラノが屋敷で雇う人間を厳選した結果、今のような状態となったのが本当のところだ。
現在は、執事兼雑用をこなす老年に差し掛かった男と、食事を作る係りの青年がいるだけだ。その他の屋敷の修繕、整備、清掃、衣類類の選択、などの細々とした仕事は、出入りの業者を選定し、定期的に代行してもらっている。そのせいか、屋敷は全体的にひんやりとし、寂しい印象を訪れた人間に与えている。
黙ったまま考え込んでしまった男を尻目に、ユリフィルとティナの親子は、微笑みあい、主の決断を静かに待っていた。
「……わかった」
端的にそれだけを返事とし、ティナは、父親がいない間、彼の屋敷でお世話になることが決定した。
それが、彼女の人生を決定付ける出来事だとは知らずに。
「お嬢様、そんなことは業者にやらせますから」
未練がましく手を振り続けた父親を笑顔で見送り、ティナはニラノの屋敷で暮らし始めた。
話に聞いて通り、いや、予想以上に人気のない屋敷で、ティナはちょこまかと動いては自分の仕事を探していた。
結果として、主であるマグヴァルンの衣装の繕い、及び、部屋の清掃などに手を出すことにした。
業者や、近所の農家のご婦人方が臨時に雇われ週に一二度行われる清掃では、やはり隅々までそれがいきわたる、ということが不可能だからだ。
「いえ、暇ですから」
「でしたらお嬢様、お勉強でも」
「午前中に学校に行きましたから」
ティナの生活は、屋敷へ移動したこと以外に、訓練場での雑用を取りやめる、という変化がもたらされた。父親の、武勲高きシリジェレン=ユリフィルがいない今、彼女によからぬことをたくらむ人間がいないとも限らない。確かに気が利き、黙々と仕事をこなすティナの存在はありがたいものだが、もともと子供が立ち入ることを良く思っていなかったマグヴァルンにとっては、丁度良い機会、とばかりに、それをティナに禁止してしまった。今現在、言うことを聞くべき相手は、居候を許してくれている相手、マグヴァルンであることを良く知っているティナは、そのことにさして異議を唱えることなく、屋敷におとなしく引っ込んでいる。
だが、人間、身についた習性、というものは悲しいもので、何不自由ない今の生活に、三日で飽きた彼女は、暇を解消すべく、自分勝手に仕事を探し始めたのだ。もともと、父子の二人暮しとはいえ、生活全般の面倒をみていたのは子供のティナだ。最初のうちこそ心配そうに彼女のあとを追っていた執事も、やがて彼女の能力と手際のよさを認め、自分の仕事へ専念していった。
「これでよし」
小さな体と、貧弱な体力では一度にできることは限られている、と、己を十分正確に把握しているティナは、一日一部屋ごと綺麗にしていくことを自分に課すことにした。数名ですむにはもったいないほど部屋数の多いこの屋敷では、一周するころにはすでにほこりが積もっていそうではあるが、無理をしない程度というと、このあたりが妥当だろう。
十二分に磨き上げられた部屋を満足げに見つめ、清掃道具を所定の位置に収めるべく、ティナは廊下へと歩き出した。
「お嬢様、お茶の時間です」
執事が優しく呼ぶ声が聞こえ、年相応に顔をほころばせ、あわてて彼の元へ走っていく。
こうして、使用人たちにも暖かく迎えられた彼女の生活は、ゆるゆると、当たり前の日常へと定着していった。