「あれは、どういう少女だ?」
その夜、アスターは寝室へとルトを呼び寄せ、酒器を片手に密談を交わした。
魔術によって結界が張られたここは、中の声が外に漏れないように細工がされている。歴代の王たちが使った部屋も、ようやくアスターものとなり、近々彼は王位を継ぐ予定である。
「キセさまのことですか?」
常より砕けた口調でルトが答える。彼は乳兄弟なのだが、公ではアスターの権威を傷つけぬようその態度を崩すことはない。
無言でうなずいた主に、ルトが言葉を続ける。
「ダームスタ公爵の次女だとしか。非常に美しくて賢い、と有名でしたが、クロロ様の教師陣は口をそろえてそう申しておりますし、誇大表現ではなかったみたいですね」
「いや、そうではなくて」
「一応色々調べましたが、使用人にも優しく、幼い頃からあの父に代わって邸を切り盛りしていたようですから、たいしたもんですよね」
「違う、おまえは何も感じないのか?」
「何も、とは?」
アスターが非常に強い果実酒をあおる。彼は、常に寝酒程度の酒を嗜むものの、このような飲み方はしない。それを不審に思いながらも、酒器に次の酒を注ぐ。
「似ている、気がしたんだ」
「似ている、ですか?」
「ああ、いや、悪い、俺の気のせいだ」
そこまで言葉を紡ぎ、再び酒をあおる。そのやけ酒とも思えるような飲み方に、ルトがわずかに眉を顰める。
「母上は社交界の華でしたからねぇ。私も夜会の時にはお姿を見てあこがれたものです」
キセの母は、非常に美しいと有名な伯爵家の娘であった。夜会で当時妻帯していたダームスタ公爵に見初められ、家格だけは高かった前妻が亡くなるとともに、彼の正妻へと納まった。そこでキセとシモンの二子を設けるものの、公爵の愛情はよそへ向き、結局二人は今は別々に生活している。ただし、正妻の座は今も彼女のものであり、名目上、公爵夫人は彼女である。
思春期に彼女を見たものは、一度は彼女に憧れ、妻にすることを夢見たことがあるほど、彼女は美しかった。その母に似たキセもやはり美しく、また、母とは違い知性を宿すその瞳がまた、彼女の人形のような美しさに、違った彩を添えていた。
「ああ、そうだな、キセ嬢はジウム殿にそっくりだ」
「はい、先が楽しみなお子様ですよね」
相槌をうち、また杯をあおる。
その後ルトは、主人がまだ何かを言いたそうにしていることを感じながらも、言われるまま、寝室を後にするほかはなかった。
色とりどりの花を抱え、第一王女の話し相手であるキセが王宮の廊下を一人歩く。
その姿を振り返るものあり、彼女に話しかけるものあり、周囲に華やいだ雰囲気を齎しながら、彼女は王女の部屋へと進む。
「そのようなことは侍女にでもやらせればよい」
背後から唐突にかけられた声に、キセはそれでもあわてず、臣下の礼をとる。
そのそつのない態度に感心しながらも、声の主は話し続ける。
「よくわかったな」
「お声を覚えておりますので、殿下、いえ、もう陛下とお呼びした方がよろしいのでしょうか」
戴冠式を控え、王宮は俄かに騒がしくなっている。
大国ローレンシウムの新王誕生の瞬間に、粗相があってはならない、と文官たちは走り回り、政権に組する貴族たちはその準備に大忙しだ。ただ、アスターそのものは、常の仕事以外には戴冠式の順番を覚えるぐらいのものであり、側近のルトの仕事量に比べれば、たいした仕事は抱えていない。目まぐるしく動く臣下たちを尻目に、落ち着かない気分で廊下に出てみれば、華が花を抱えて歩いている姿を目にし、思わず、といった風情で声をかける。
「傷がついている」
ほっそりとしたキセの白い手に、花を切り取ったときにでもついたのか、小さな傷跡が残っている。それを鋭くみつけ、王子は彼女の手を取る。
だが、キセは落ち着き払った態度で、笑みを返し、大丈夫です、の言葉と共に、右手を取り戻す。代わりに彼女は、花束の中から一輪の花を彼へと差し出す。
女神の化身、と呼ばれる白い花は、ローレンシウムで広く愛される可憐な花だ。
「これを、お好きでしたよね?」
彼女の言葉と、わずかに感じたぬくもりに、アスターは戸惑いを覚え、彼女が一礼して去っていく姿をそのまま見送った。
その後、脱走はあっという間にルトにばれ、彼は書類の待つ執務室へと連れ戻された。
胸のざわつきが一向におさまらないまま、彼女の体温が残っているかのような右手をみつめ、執務へと戻っていった。
シモンと約束した通り、キセは彼の部屋を一日に一度は必ず訪れた。
朝から王女の世話をし、昼餉を共にしたのち、語り、学ぶ。邸に戻れば一日の仕事を精査し、公爵邸に運ばれた文や貢物などを検分する。
そんな目まぐるしくも忙しい中において、シモンの部屋はキセにとっても一種の逃げ場となっていた。
「今日はリリとロンが来てくれたの」
別棟に住む妹弟の名を聞き、キセが微笑む。
二人は少々頭が弱いものの、その心根は優しく、こうやって部屋から出られないシモンをたびたび見舞ってくれている。それは、キセがお願いしている、ということもあるのだが、それでもこの棟においては、その存在を完全に無視される彼らにとって、決して心理的に容易いことではない。それでもそれを振り払ってここへやってきてくれる彼らをありがたく思い、できるだけのことはしよう、とキセは感謝の気持ちを抱いている。
「王女さまはお元気でした?」
「ええ、とてもお健やかでした」
一日の王女の話をし、今日学んだことを掻い摘んで話す。
その時だけはキセは年相応の少女であり、ただのシモンの姉である。
やがて、いつものように寝入ってしまった弟を確認し、キセは右手から何か、を作り出す。
小さな光球のそれは、柔らかな光明でキセの持つ本だけを照らす。
ローレンシウムは魔術がそれなりに盛んな国だ。それをよすがにする隣国フェルミほどではないが、魔術を利用する頻度はそれなりに高く、またその技術は一般にも広まっている。また程ほどに信心深い国民性であり、先の大戦を終結へと導いた実りの女神、などは好んで信仰する神として知られている。その信仰を利用した神聖魔術と呼ばれるものもそこそこ盛んであり、そのどちらかというと何でも受け入れる鷹揚さが、この農業国ローレンシウムをのんびりとした雰囲気にしている。
しかし、この国では貴族の子女が、日常で魔術を使うことは稀だ。
もとより魔力をうまく使いこなせる者が魔術師だ。その配給源が己であるのか、他者であるのか、はたまた物であるのかの違いはあれども、使いこなせなければその者を魔術師とは呼ばない。その技術を有するものは、ローレンシウムでは特定の家系に生まれることが多く、またそれらの家系は力のない他者からの血が混じりこむことを嫌う。同じように血脈を大事にする貴族の家には、彼らが入り込む隙はなく、稀に混じりこんだとしてもその子が魔術師として育てられることはあまりない。よって血を尊ぶ家ほど、魔術師が生まれ、育てられることはほとんどないと言ってよい。それは、そのような才能を有していたとしても、それを見出し、教育せねば魔術師たり得ないことの証左でもある。
気まぐれにその才を発見された子供は、そのような環境下においても発現するほどの才能者であり、すぐさま神殿へと預けられるか、しかるべき施設で教育を受けることとなる。その時点でそのものは生家との縁は切れ、生家はその代わり何某かの報奨を得ることができる。あまり裕福とはいえない家では、歓迎されるべき事象ではあるが、極々稀、であることは確かである。
まして、ダームスタ公爵家ほどの有力貴族ともなるとその可能性は稀有だ。
どれほどたどってみても、王家へ嫁ぐ、もしくは降嫁する、といったことはあっても、魔術師が生まれたという記録は見当たらない。
キセが、今シモンの部屋で行っていることは、魔術の行使である。
初歩的なそれだが、細かな調整が難しい光の魔術を履行したキセは、何気ない顔をして本を読み続ける。シモンではなく、その文字を読めるものは誰もがそれを十二の少女が読んでいるとは思わないだろう。
“召還の術”とだけ記されたその本は、ローレンシウムにおいては禁書であり、また、現在それを正しく読み解けるほどの学者は数少ない。
キセは区切りの良いところまで読み終わると、静かに本を閉じ、光球を消す。
弟の寝顔を見た後、小さく伸びをして、その部屋を出て行った。
暗闇が落ちてきたシモンの部屋には、そろそろ月の光が入り込み始めていた。