適当な本をもってキセは同母をもつ弟、シモンの部屋を訪れる。
生まれつき体の弱い彼は、その一日をほとんど寝室で過ごす。キセの采配で、最も日当たりがよく、見晴らしのいい部屋があてがわれ、気分の良い日などは外気にあたるため、露台へ出ることもあるがそれだけだ。彼の世界は非常に狭く閉じられている。
「姉さま」
子供独特の甲高い甘やかな声で姉を呼ぶ。一日の変化はキセが運んでくれるものがほとんどであり、彼はそれ以外をしらない。体調が良いときなどは、稀に家庭教師が訪れることもあるが、ここのところの発熱で、それも随分とご無沙汰である。
「本をもってきたの。これならシモンでも面白いと思って」
子供らしく外で遊ぶことができないシモンの唯一の趣味は読書である。そのため、最近は彼と、知識欲旺盛なキセのための書が増加傾向にある。
「読んでいい?」
「ええ、おやつをきちんと食べたらね」
食の細いシモンでは、必要な栄養をとるには午前と午後の小食事、とも呼べるおやつがかかせない。普通の子供ならば喜びそうな甘菓子にわずかに顔を顰め、流し込むようにしてそれらを喉に放り込む。ゆっくりと、それでもきちんと嚥下したのち、彼はようやくキセの持ってきた本を手にすることができた。
「姉さまはもういってしまうの?」
「ううん、少し時間ができたから、ここで一緒に本でも読もうかとおもって」
姉が姉自身のために持ってきた本は、その題目すらシモンは読めないものだった。彼が全てを縋る姉、キセは非常に賢く、ダームスタ邸を訪れる全ての教師は彼女にあらゆる学問を勧める。数年前、すでに一通りの貴族の子女としての一般教養を学び終えた彼女は、さらに高等な学問を修めようと父にかけあい、外の学校へ通うことを望んでいた。しかしながら、そういったことに一向に興味を示さないにもかかわらず、婦女子が学ぶ、ということを嫌悪する公爵は、全ての学問を禁止しようとまでしたらしい。それがどういう風にして今のように師が邸へ訪れる、という形となったのかはわからないが、キセの学びたい、という欲求は辛うじて叶えられることとなった。
今では、まったくここに寄り付かなくなった公爵のおかげで、キセはかなり自由に教師を呼び寄せ、シモンの知らない学問を学んでいる。
シモンにとってのキセは、絶対的保護者としての姉であり、優しさとしての母であり、外の世界をわずかでも垣間見させてくれる友人である。
その姉が、何を思い何を学び何を目指しているのかを知りたい、と思ったことはある。
シモンの少ない知識の中でも、キセの学問の領域は異常なほど肥大しているからだ。
だが、それと同時にそれを知ってはいけないような気がするのも事実だ。
それを知ったときに自分の世界はどうなるのか。
今日もわずかな恐怖を抱え、シモンはキセに縋る。その形がどれほど歪であろうとも、彼には彼女しかいないのだから。
「また泣いているのか」
従者、ルトの言葉に、アスターは大げさにため息をつく。
従者からもたらされたのは、彼の妹、クロロが寝室に閉じこもったまま出てこない、というあまり喜ばしくない情報であり、悲しいことに、それは彼らにとって日常茶飯事の出来事である。
側室の娘として生まれた彼女は、第一王子アスターと年が離れていたこと、また、初めての女の子供ということで随分と甘やかされて育てられてしまった。やがてはどこかへ嫁に行く身として、礼儀作法や最低限の教養などは身につけつつあるものの、そのどれもが教師という教師を呆れされるほどの態度を示し、とある公爵夫人などはクロロの余りのできの悪さに、その職を辞したほどだ。
今までは、それでも適当に臣下の一人に嫁せばよい、と鷹揚に構えていたアスター王子だが、数年前よりその風向きが変化した。それにより、クロロは、苦手な学問をより学ばねばならなくなり、今日のように寝室に閉じこもる、という愚挙が増えていった。
「あれは王女としての自覚があるのか?」
「それはさすがに、ですが」
臣下としてあまりおおっぴらに王女の悪口を言えないルトは、だがその表情で雄弁に内心を語っている。
あれは、王族としては失格である、と。
アスターは幼き頃より世継ぎとなるべく学び、鍛え、立派な継承者としての立場を確保していった。それをつぶさに見てきた立場から、今のクロロの態度は目に余るものがある、と感じてしまっても仕方がないだろう。だが、そこで思考を停止させたところで、この状態がよくなるわけでもない。
「跡継ぎができれば一番いいんだろうがなぁ」
もうすぐ三十となるアスターは、正妃はいるものの子が生まれていない。何人かの側室をとりたててはみたが、彼女らにもまた一様に子は生まれなかった。正妃にしてもまだあきらめる年ではない。今から子供が生まれないとも限らない、しかし、その可能性は非常に低い、と感じた周囲は、クロロに婿を取らせる方向で話を進めていった。そのため、甘やかされるだけであったクロロは、突然周囲の期待が重圧となってのしかかり、こうやって頻繁に癇癪を起しては困らせるようになった。
「クロロさまに話し相手でもお付けになったらどうです?」
今まで何度も浮上しては消えた案を従者が口にする。
次期女王の話し相手。
それの意味するところがどれほど大きいかは、二人とも重々承知している。家格を押し上げ、つまらぬ野心を抱くものには、格好の隙を与える結果となってしまうだろうことも。
戦争から十年以上たっても、このローレンシウムは落ち着きを取り戻したとはいい難い。その一つは近年続いた不作のせいなのだが、いつまたそのような状態になるかはわからない。また、戦争の折に欠いた文官や武官の補充も満足に進んではいない。中央の政権においても、いくつかの家が断絶となり、つまるところ人不足なのだ。あまり良く考えずに父王が取り立てた側近は、国のことは一つも考えないろくでなしであったが、それを排除するまでにかかった年数と労力を思えば、安易に人を引き込みたくないアスターの気持ちは十分理解できる。
「ダームスタ公爵家あたりから人を呼ばれればどうでしょう?今までは該当するものがおりませんでしたので申しませんでしたが」
「ダームスタ?あそこにまともな人間がいるのか?」
職務を果たさず、遊興にふけっている当主と、その夫人のことは余りに有名だ。だからこそその子供が時期女王の話し相手に足る人間だとは到底思えないのは無理もない。
「いえ、あそこの子供はどれも優秀なようです。長兄と長姉は共に士官学校の成績は優秀だそうですし、次女のキセさまもまた大変美しく優秀だと噂に聞きました」
「その大変が、どちらにかかっているかはわからぬが、噂は噂に過ぎぬだろう?」
「いえ、クロロさまを教える教師の中に、キセさまを教えているものがいるのですが、彼女は今まで教えた中で最も優秀な教え子だとおっしゃっていました」
「お前もたいがい優秀だな。ぬかりない」
「出すぎたまねを」
彼らは笑いあい、二言三言言葉を交わし、ルトの提案は受け入れられた。
王家からの申し出は、一応ダームスタ公爵へと伝えられ、彼は久しぶりに実家である本宅へと足を運ぶこととなった。
政治的野心があまりないとはいえ、王家からの申し出は彼の虚栄心を非常にくすぐるもので、始終満足して、キセにそのことを申し付けた。
気まぐれで、父としてはろくでもない人間ではあるが、彼は美しい夫人に似た、キセを娘としては最も愛している。その自慢の娘が王家とつながりを持てるのだから、またとない喜びだろう。彼は上機嫌で、再び愛人宅へと帰っていき、結局自らが引き込んだ愛人、リウと、その子供たちを視界に入れることはなかった。