御伽噺の乙女/第1話

「これでなんとかなる、か」

極めて端整、と呼ばれるほどの造作ではないものの、育ちのせいなのか、おっとりとした中にも威厳のある雰囲気のせいなのか、それなりに嘆息するものもいるだろう、と思われる男がひとつため息をつく。
簡素な、だけれども一枚板で作られた丸机は、光沢を帯び、その上には質素な茶器がまだ熱いお茶を注がれたまま、静かに主の口へ入るときを待っている。

「はい、おそらく幾ばくかの蓄えもできましょう。昨年の不作はあまりにもひどい有様でしたから」

そばに立って控えている男が、座ったままの男に話しかける。

「確かに、あれはひどかった」

鷹揚に答え、再びため息をついた男は、幾枚かの紙を右手に取り、再び机の上へ置く。

「こればかりは、我々は神に祈るほかないからな」
「ええ、ですが」

それきり立った男は、口を噤み、座した男はわずかに湯気を立てている茶に口をつける。その仕草も優雅な男は、農業国として知られるローレンシウムの王子、アスターその人であった。勇敢で思慮深いとして知られる彼は、心から信頼できる乳兄弟である従者と二人きりで様々なことを語り合う時間を大切にしていた。

「異常な魔力が感知された件ですが」

その話題は多岐に渡り、ともすると最初は瑣末なこととして捉えられてしまいそうな事象を洗い出すことに役立っている。

「ああ、確かダームスタ公爵家付近にたどり着いたそうじゃないか」
「はい、ですが、あの家のものに該当するものは」
「隠しているんじゃないのか?それこそあの家の財力や交友関係を考えれば、不可能ではないだろう?」
「いえ、それは、さすがに不可能だと。それに現当主はあまりそういうきな臭いことに興味を持つ人柄では」
「女にしか興味はないか。踊り子との醜聞はさすがに俺の耳にも入ってきたぞ?」
「口さがない、と切って捨てるにはあまりにもな醜聞でありましたから」

国内有数の歴史と家柄を誇るダームスタ家といえば、王家とも密接に係わり合いをもつ名家であある。詳細に語るまでもなく、アスターの祖母はダームスタ家出身であり、現当主の子供たちは彼のはとこに該当する。その当主が、踊り子に入れあげ、あまつさえ本家へ足を踏み入れることを許したのだから、噂にならない方がどうかしている。彼女の存在を嫌ったのか、長女と長男は士官学校へと進み、寮生活を始めており、現在は二番目の妻の娘と息子がいるのみだ。面白おかしく吹聴された噂は、そこかしこで花を咲かせ、めぐりめぐって王子の耳に届くまでとなってしまっている。

「結局、その魔力も徐々に薄れ、今ではまったく検知できなくなってしまいました」
「不明なまま、か。いや、そのままダームスタ家にはそれとなく見張りをつけろ」
「はい、仰せのままに」
「もっとも、あそこの家の子供はまだ」
「クロロ王女と同じ年ですので、今年で七つになられるかと。下のお子様は二つ三つほど幼かった記憶が」
「その年で、あの規模の魔力を隠しとおせるものか」
「私の知識の範囲内では無理かと、ですが」
「そうだな、奇跡、ならありえるな」
「王子」
「いや、いい。悪かった。おまえまで思い出すことはない」

そう言ったきり、二人に沈黙が訪れた。
何気なく見上げた外界は、重く暗い雲が立ち込め、今にも泣き出しそうな有様だ。
アスターは冷え切った茶を押し込み、零れ落ちそうになった言葉を飲み込んだ。
その年のローレンシウムは久々に豊作に恵まれ、人々は口々に豊穣の女神へと素直な感謝を捧げた。



 豊かな農業国であるローレンシウムは、ここ数年にわたる不作のおかげで、国内がなんとなくざわついた、少々治安の悪い状態に陥っていた。外貨と、食料を手にする唯一の手段である農作がうまくいかなければ、金貨どころかたちまち食うに困ってしまうのは当たり前で、食料に困れば、良くないことを考える輩が出てくることも必然である。まして季節労働的な働き方をしていた人足たちの働き場がない、となれば、治安の悪化は避けられない。これ以上貧することがあれば、と、国の誰もが危ぶんでいたところ、何年にも及んだ天候不順がうその様に、ようやく太陽の恵みがもたらされ、ローレンシウムは国自体の崩壊が免れたと、と言っても言い過ぎではないだろう。
人々は生き生きと立ち働き、食料は満たされ、十分な対価を受け取った。
安堵に包まれた人々は、豊穣の女神への感謝を忘れず、久々の余裕のある暮らしを楽しむのだった。



「先生、どうして女神の娘はお帰りになったのですか?」

まっすぐで艶やかな薄茶の髪を無造作にたらし、前髪を眉毛にかかるあたりで切りそろえられた少女は、行儀よく座った姿勢のまま、小首を傾げ、対面に立っている老人に問いかける。

「そうですね、私は母上殿が寂しがられたからだと、思っておりますが」
「女神さまが?」
「はい、いくら神とはいえ、娘が離れれば母は寂しいものかと」
「・・・・・・そうですね。豊穣の女神さまは慈悲の女神ですよね?きっと子供がいなくて寂しがっていたのでしょうね」
「キセ様は飲み込みが早くてらっしゃる。そろそろ専門的な教師についてもらう手はずを整えましょう」
「ありがとうございます。私も勉強はとても好きです。父はいい顔をしないでしょうが、先生からもよろしくお願いします」

キセ、と呼ばれた少女は、小首をかしげ、その姿に老人が相好を崩す。
彼女は、美しい、と呼ばれることにいささかの抵抗もない、いや、その言葉が陳腐である、とさえ言い切れるほどの造作を持ちえた少女であった。まだ八つと、幼いながらもその美貌は、社交界の華と呼ばれた母に似て、時折大人たちをどきりとさせるほど大人っぽくもあった。ただ、やはり彼女の見せる雰囲気は年相応のもので、くるくる変わる表情は、周囲をほほえましく和ませてもいた。

「学問は大切です。私からも父上によく言っておきますから、キセさまは安心なさってください」

生国、ローレンシウムの歴史や、読み書き、簡単な算術、文学、などを教わったキセは、その好奇心と吸収力のよさを遺憾なく発揮し、教えることが好きな老人をことのほか喜ばせた。
特に、あまり頭脳的に優秀とはいえない長子たち、双子の姉と兄、や、体が弱く、こうやって学ぶことすら難しい弟のシモンと違って、打てば響くような返事をするキセとの授業は彼をにとって楽しみであり、女が学問をすることを喜ばない父親を説得してまでも、彼女に高度な学問を与えたい、と思うことはごく自然なことだった。

「先生は戦争には出られたのですか?」

隣国、プロトアとフェルミ、との長きに渡った戦争は、キセが生まれる少し前に集結し、彼女は直接そのことを知らない。今日老人に教えられた通り、その戦争はローレンシウムに遣わされた女神の娘の力で終結し、その娘は見届けたのち神の国に帰った、という歴史書が語る真実を見聞きするのみである。

「いや、この老いぼれが出ても足手まといでしょう。代わりに孫たちが犠牲となりましたが」
「ごめんなさい」
「いや、キセ様が気になさることはない。戦争とはそういうものじゃから」

自らの失言に、まぶたを伏せたキセを労わる。
穏やかな春の日差しがキセの頬に落ち、老人はその光景に目じりを下げる。

「今日はここまでとしましょう。キセ様復習は忘れずに」
「はい、ありがとうございました」

かわいく微笑んだキセに、教師は再び朗笑した。
キセは教科書を抱えたまま、教師が部屋を出るのを見届ける。
扉が閉まり、部屋に静けさが訪れる。
キセはひとつため息をついて、乱暴に本を横椅子の上へと放り投げる。

「つまんない」

先ほどとはうって変わった口調が部屋に響く。
どっかりと本がちらばる椅子に座り、彼女は隠していたまったく別の本を取り出す。
老人との授業では見ることができないほどの真剣な目で、しおりが挟まれていたページに目を落とす。
授業の復習のため、一時間はここの部屋へと近づかないように言い含めてある。
誰にも知られずに読み進められていく本は、この年の、いや、この家の少女が目にするにはあまりにも不似合いなもので、今現在も屋敷の誰にも知られてはいない。
彼女は、約一年ほど前より、この秘密の学習を続けており、そのせいか、おそらく知識だけは相当なものとなっているはずである。
ただ、これ以上学ぶとなると、やはり独学で無理である、と、判断している彼女は、そのきっかけを待っていた。
しばらくしたら用意される幾人かの専門家がその役に立てば、と、算段しているところである。

「どうしよーかなぁ、これから」

すでに何十年も生きてきたかのような物言いは、普段みせる幼い顔とはことなり、もう十分大人の表情をみせる。
やがて、控えめなノックとともに、彼女はいつもの顔を形作り、部屋へ入ってきた女中へ笑顔をみせた。

10.5.2010
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