侵略が開始された、と、国境から遠いリエラの住まう神殿にも情報がもたらされた。
以前にもまして、神官以外の人間からの視線は、リエラにとって冷たいものとなっていた。彼らは皆一様に、今の惨状は彼女が齎したものだと思っているのだろうし、また、それを隠そうとはしない。祭主やその他の神官たちは、それを顔に出すことはしないものの、きっと内心そう思っているに違いない、と、リエラは脅えている。
なぜ。
どれほどその言葉を吐き出したのかはわからない。
言われるままに嫁ぎ、気に入らないからと帰ってきたのは確かだ。
だが、そういう振る舞いをゆるしてきたのは周りではなかったのか、と。
落とされた境遇は、彼女にとっては手のひら返しとしか思えない。散々甘い言葉を囁き、不遇においやる、などということに正義があろうはずはない。
神に祈るふりをしながら、リエラは内心で神を罵倒していた。
こんなことが許される世界があっていいはずはない。
だから、あんたなどただの置物だと。
神を具現化した神像を冷ややかな目で見下ろす。
日課として決められている朝の礼拝を済ませ、彼女は屈辱的な掃除をこなすために祈りの場を後にした。
一人で雑巾を手にし、あちこちを雑に拭いてまわる。
ここのところ監視の目が緩んでいる。
いや、あの忌々しい従者がこの神殿にはいないのだ。
戦況は思わしくなく、彼のような若い文官は対策に掛かりきりなのだ。本来ここにきてリエラの監視、などという油を売ったかのようなまねをしていていい身分ではない。
だが、あの視線を感じないというのもどこか物足りない気がする、と、リエラに埒もない考えが浮かぶ。
すぐにそれを打ち消し、乱暴に雑巾をすすぐ。
他のものたちも黙々と仕事をこなす中、彼女の周囲はある一定以上の距離があけられている。
それはリエラの性格に由来するものでもあるし、彼女が行った振る舞いにもよるものである。
緩んだ監視の目は、彼女に隙を与えた。
そして、突然入り込んだ外部のものから齎された。
倹しい衣類に、顔を隠すようにくすんだ色の布を頭から被った女、のような人間がいつのまにかリエラの背後に立っていた。
リエラは驚き、声を上げようとした。
だが、それはその女に左手で制され、彼女はあっという間に身動きが取れない状態となった。
「姫様、私です」
緊張に強張った体は、だが、懐かしいその声音によって解けていった。
「ミューラ、なの?」
かつてリエラに乳を与え、ある程度まで育て上げた乳母の名を呼ぶ。
女は頷き、そしてリエラは豊満な体に抱きしめられた。
「遅くなってもうしわけございません」
暖かい言葉に、リエラの頬には知らずに涙が伝っていく。
「さあ、姫様、ここを出ましょう」
「でも」
「私の母方の郷ならば安全です、さあ、早く」
覚えのある柔らかな右手につかまれ、リエラはもはや思考を失う。
逃亡する。
ここを。
監獄のようだった神殿を。
それはこれ以上ないほど甘い誘惑であり、彼女の体は深く考えることなくミューラの言に付き従った。
何ヶ月たとうが慣れない生活。
何の楽しみもない日々。
リエラが死ぬまで続くであろう蔑みの視線。
だが。
微かに思い出した従者の顔は、リエラに何を訴えようとしていたのか。
その日のうちに、リエラは姿を消した。
うろたえる祭主を除いて、彼女を探そうとするものなど、神殿には誰も存在しなかった。
「逃亡した?」
リエラを最も身分の高い側室の王女と入れ替えるため、その王女を密かに嫁下させた王は、議場で敵国からの要求を公にした。
そんなものでこの国の安泰が図られるのだと、貴族たちは安堵した。
ふさわしい美貌をもった王女、という部分は伏せられ、全ては王、と第一王子、また数少ない側近たちの間で計られていった。
血統だけは良い王女が、敵国の王のものとなればよい。
町一つが侵略され、そこに陣をとり、さらに進軍を続けようか、という敵国の現実を知ってもなお、王の言葉に貴族は安心しきっている。
もう、ここは安全なのだと。
腑抜けた彼らが退場した後、密談の場で王はリエラを監視していたはずの従者からその情報を耳にした。
「おそらくミューラ、乳母が手引きしたものだと」
「心当たりは?」
「すでに手配を」
ミューラに縁のある地をいくつかあげ、王は満足して応える。
あれがいなくては、敵国との交渉の場に立つことすら叶わない。
美しく血脈の高い女。
それはリエラを置いて他にはいないのだから。
「ですが、あれを呼び戻したところで二の舞になるのでは?」
神殿へ籍を置かせ、質素な生活を送り、日々祈りを捧げていたというのに、リエラは結局その心根を変えることはなかった。その事実が王と王子を苦悩させる。
王族としての自覚も、置かれた立場も、全く理解もせずしようともしなかったのだと。
それに比べれば、秘密裏に処理された王女は、名もなき元王族として、全てを悟って家臣のもとへ嫁いでいった。そして、密やかに使者としてたち、殺されてしまった王女も、自分たちの役割を嫌というほど自覚していた。ただ造作が良い、というだけでリエラという駒を欲する自分たちが歯がゆい。
密談は終わり、各々は闇夜に紛れていった。