その頃、陛下は大量の書類の山と、容赦ない見張り人のような事務官と、あまり招きたくはない客の三方から攻められるような格好で、主の席に鎮座していた。
「ロラフェド殿、どういった……」
己の立場が強いのだから、主らしく振舞えばよいものの、こういうときの陛下は、どうしても弱腰となる。それを知っての上なのか、いささか鼻持ちならない態度で、ロラフェドは女官が運んできた茶器を優雅に左手で受け取り、器を上品に口元へ運ぶ。
「ふーん、さほどいいお茶でもないんだな」
「日々の贅沢は、己の感覚を鈍らせる」
客、ともなればそれなりに上等の茶をもってもてなすのが決まりではあるが、今この部屋へ訪れているのは臣下のひとりであるロラフェドだ。まして、陛下は先々代が掲げた質素倹約の規則をそれなりに守っている珍しい王族だ。日々の茶は、価格と品質が釣りあい、安価すぎず高価すぎないものを口にしている。恐らくアンネローゼが飲んでいる茶葉の方が、数倍の値がつくものだろう。
「……立派なことを口にする」
玉座をコザーヌ家から奪っておいて、という言葉がにじみ出るかのような視線を陛下へと向ける。
「して、用事は?」
「お気に入りの子は元気?」
唐突にユリのことを口にされ、陛下の筆記具を持った手が止まる。
飽きてきたのか噂話こそ下火にはなったものの、凡庸で淡々とした陛下の熱愛の噂は、王宮中にあっという間に広まり、今では挨拶代わりに女官たちが花を咲かせる始末だ。当然、コザーヌ家としてはおもしろいはずはない。
今、その場に座している立場は彼の従兄、リサゼルのものであったはずなのだから。
リサゼルが廃嫡し、陛下へ適当な側室すら差し出せない現状では、コザーヌ家はこれ以上現王室に取り入る術はない。
アンネローゼ、ニーノが共に失脚したところで、他国から正妃が嫁いだジクロウは、着々とその足場を固めつつある。由緒ある大貴族の一員として大人しくその地位に納まり、陛下を守り立てる方向に資質を割けばよいものの、コザーヌ家はそれを良しとせぬ気質を代々引き継いでしまっている。
「息災にしておるが」
「それは良かった」
優雅に茶器を机の上へ置き、ロラフェドが席をたつ。
目的がわからないままも、陛下は安堵のため息をつき、書類へと取り掛かる。
「そういえば、スリリル嬢が見当たらないみたいだけど、どうしたんだろうねぇ」
陛下へ背を向けながら、ロラフェドが独り言のように呟く。
その白い手が自ら扉を開け、侍していた側仕えの人間を促しながら去っていった。
陛下は、ただ、その背中を見つめながら、ロラフェドがもたらした言葉を噛み締めていた。
ユリの存在を不愉快だと公言していたコザーヌ家が、わざわざユリと、また、ユリにとっては敵対関係とも言えるスリリルの名を残していった意味を考える。
凡庸な頭の中でさえ、嫌な予感が駆け巡る。
早急に必要だという幾枚かの書類に署名をし、文官に、宰相を呼び出すよう使いをだす。
あまり達筆とはいえない署名を、それでも懸命にこなしながら、ジクロウは宰相の到着を待つ。
だが、文官からもたらされた言葉は、わけあって彼がどこかへ出立した、という不安を煽るものであり、その足で使わされたアーロナや、ローンレーすら、出先不明のまま主は不在である、という文言が返されるばかりだ。
厳しい文官たちに見張られ、どうにか仕事を終えた陛下は、即座にアンネローゼの元へと向かう。
側室といえども、陛下は気軽に彼女たちの宮へ渡れるわけではない。代々にわたって簡素化されたものの、それでも侍女を通して幾度かのやり取りを経たのち、彼女たちの元へたどり着ける。だが、そのような場合ではない、と判断したジクロウは、制止する女官や侍女を振り切り、たびたび茶会が開かれるアンネローゼの私室へと歩いていった。
「アンネローゼ」
「遅い」
扇をピシャリと閉じながら、アンネローゼがジクロウを叱責する。
「すみません」
わけもわからず、反射のように誤りの言葉を口にしながら、側に座っているリティの姿をようやく認識する。
「ローンレー夫人に使いを頼むところであった」
「やはり」
視線で使用人を下がらせながら、アンネローゼが言葉を続ける。
「ユリが呪われた」
「リイルに、ですよね」
「他にあてでも?」
「いえ、そういうわけでは」
徐々に声が小さくなる陛下を尻目に、リティは厳しい視線を彼へと向ける。
「陛下、いいかげんに判断なさいませ」
「……それは」
「でしたら、一生ユリ様が石化していらしても、いいのですね」
ようやく、ユリの身に起こった深刻な事態を把握したジクロウは、それでも迷いを隠せないでいる。
「まあ、陛下が下さずとも、ブランシェ殿が黙ってはおるまいが」
「それは、だが」
ユリを思う気持ちが溢れかえっているダレンが、手をこまねいているはずはない。今頃は穏便にすませたい宰相と、アーロナに押しとどめられてはいるだろうが、早晩それは決壊するだろう。
「コザーヌ家はどうあっても陛下を現場へ向かわせたいようじゃ」
「そうですね、恐らく。あわよくば、程度の期待ではありましょうが」
困惑した陛下が、先ほどのロラフェドとのやりとりを口にすると、アンネローゼとリティがそれぞれ思わせぶりな会話を交わす。意味がわからない陛下は、ただ眉尻を下げ、二人の言葉に聞き入ることしかできない。
「こちらとしても、このままでいるわけには」
「ローンレー夫人と私はこちらで」
「ええ、アンネローゼ様。恐らくエリヤ様も」
「手配を」
「はい」
陛下にとっては不可解な二人の密談は終わり、陛下は少数の、だがローンレー夫人が推薦し、掌握している騎士を従え、ユリたちが留まっている湯治場へと出立させられた。
夜が明けかけたころまで、宰相たちはただ無言でお互い視線を交わしながら、なんとも言えない時間をすごしていた。スリリルに術を使わせないように、ダレンとアーロナの二人がかりで結界を張る。その分二人とも己の術が使えない。おかげでダレンが単独でスリリルを殺害することを防いではいるが、それも時間の問題だろう。術を使えない術師など、まして何もできない彼女をどうこうすることはたやすいのだから。
「どう、しましょうねぇ」
石化したユリを囲みながら男どもが雁首を揃える。押し黙ったままのダレンは、隣の部屋へと射るような視線をむける。
「ブランシェ様」
隣室では、恐らくジエンがスリリルの説得を試みているのだろう、ローンレーの従者が扉を固め、室内には腕が立ち、決断力のある主、ローンレーが二人を見張っているはずだ。
「明日になりましたら、こちらとしても決断をくだします」
「あたりまえだ。俺としては今すぐにでも結論を出して欲しいがね」
「ですが、やはりあれは術者が解くのが一番体には良い方法かと」
難しい呪術の本を読みながら、アーロナが宥める。
確かに、呪いは術者の命を消しさえすれば、そのほとんどが解けるはずだ。だが、その反動が解かれたさいには体へと跳ね返る、とも記してある。その反動は術が強ければ強いほど大きく、稀代の術師であるスリリルのものとあっては、そうやすやすと行動に踏み切れない、というのも一つの理由である。
「どうして痴情の縺れがここまでややこしいことになるかな、おまえら」
「まあ、確かに一言で言えば、そうなりますが」
宰相が、身も蓋もないダレンの言葉に苦笑する。
そう、ダレンの言うとおり、元をただせばスリリルの陛下への一途な思いから始まった出来事だ。よもやその原因となった本人ですら、このような事態となってしまったことを飲み込めていないだろう。
「お貴族様って言うのもめんどくせーなー、ったく」
ユリがいなければ殊のほかぞんざいな口を聞くダレンが、腕組みをしながら天井を見上げる。
「そうですね、ですが、この仕組みはもはや変えられないものなのです」
その仕組みの中に組み込まれ、それ以外では生活をすることも、そのことを想像することも不可能な宰相が呟き、アーロナが書物から目を離しながら同意する。
「明日には、あんたらがどう判断しようとも、俺はあの女を許すつもりはない」
「……はい、こちらとしても、ユリ様をこのままにする、という結論だけは出すつもりはありません」
表情が動かない、ただの置物となってしまったユリを三人は見つめる。
愛情と、同情と、仄かな尊敬の思いを、それぞれがそれぞれの胸に抱き、夜は明けていった。