その少し前、宰相は、アーロナが所属する魔術院にて、ユリから渡されたものをそれに詳しい人間に当たらせていた。
やわらかい布に包まれた小瓶。
アンネローゼの茶に混ぜろ、と言われたそれは、やはり仄かな苦味を含む、毒薬であった。
香りの高い茶に混ぜれば、恐らく数口は口に含み、嚥下してしまうだろう。
そして、致死量にはその程度で十分でもあった。
未然に防げたことに安心し、宰相はアーロナと共に、ローンレーの元へと急ぐ。
「申し訳ないが、信用の置ける部下にユリ様の警護をお願いしたい」
「それでしたら私が、あまり知っている人間を増やすのは剣呑です」
「それならば助かりますが、仕事は?」
平和な大国の騎士隊長の仕事は、いわばお飾りだ。
儀典のときなどに綺麗に着飾り、美しい馬を引き連れ、その武力を誇る、というのが今彼らに与えられた最も大きな仕事だ。特に陛下直属の騎士隊はその意味合いが強く、所属する人間たちも、それぞれ家柄の良い家の次男や三男などが多い。
ローンレーなどは長男なくせに騎士隊などに入った変り種だが、その代わりといってはあれだが、彼の家の政治的側面は奥方であるリティが一切取り仕切っている。
だからこそ、たかが侍女とはいえ、ある意味色々複雑な側面を持つユリの警護、などは騎士らしい仕事としてローンレー自身、率先してでもやりたい仕事である。
「どうせ稽古と訓練しかありませんし、それもまあ、あんな感じですしね」
まるで舞踊を踊っているかのような剣の稽古を指差しながら答える。
警備隊や、辺境を警護する騎士隊などでは全く様相が異なるが、肝心の中央はそんなものだ。その中でも腕は確かな分だけ、やはりローンレーはこの騎士隊の中では浮いた存在だ。
「助かります、わけは道すがら」
貧弱な宰相と、脆弱な魔術師と、美丈夫の騎士が連れ立って歩き、ユリが持ち込んだやっかいな出来事を説明する。
「……まさか宰相殿のところへ駆け込むとは思ってもみないでしょうね、相手は」
ユリはただの侍女だ。
確かにリティが気に入り、今はアンネローゼの下で働いている。その関係で宰相とのやりとりが頻繁で、ユリがその使いにたつことも多々あれども、それはリティが侍女として、というよりむしろ政治家として機能しているせいであり、誰もユリが直接気軽な口を宰相と聞ける、などと思っている人間はいない。
だからこその計算違い、なのであろう。
小娘は殺せと脅せば、びくびくしながら言うことを聞くであろう、と思っていたのか、失敗して消したところで侍女の一人や二人たいしたことはない、という驕りであろうか。
宰相が扉を開け、ユリを確認する。
「ユリ様?」
だが、そこにはユリの姿はどこにも見あたらなかった。
「ユリ様?」
アーロナが叫ぶ。
宰相が部屋を出て、直属の文官たちを呼ぶ。
「ここへ尋ねてきた侍女を見なかったか?」
「我々は誰も見ておりませんが」
だが、他の部屋にて仕事をしていた彼らが、彼女の姿を知るはずもなく、たかが侍女一人にやけにあたふたしている宰相を珍しそうに眺めるだけだ。
「先をこされた」
「アーロナ殿、魔術は使えますか?」
「できる、みたいですね。そうなると少し離れたあたりかと。早速探知してみます」
同じ部屋にいる、と言うほどの距離でなければ魔術が使えるアーロナが請合う。
執務室の扉は閉められ、男三人が顔をつき合わせ、ユリの居場所を探す。
「地図はありますでしょうか?」
アーロナの求めに、王宮施設の見取り図を宰相が差し出す。
「あの、このあたりに反応があるのですが」
アーロナの指差した場所は、ある意味一番わかりやすく、最も納得のできる館、であった。
「リサゼル様……」
「ええ?あの?」
三人の男が頷きあい、沈黙がはしる。
「……これは、そう簡単に手出しするわけには」
「ええ、突入するにしても侍女一人に対して、と言われると」
ユリが今どういう扱いを受けているのかはわからないが、彼女が何か粗相をしたのだからこうしているのだと、リサゼル側に言い張られてしまえば、宰相側は何も言うことはできない。
それこそたかが侍女だからこそ難しいのだ。
「忍び込んでユリ様だけ連れて帰る、というのは」
「私はユリ様の近くでは魔術は使えません」
「ブランシェ様に助けを?」
「ええそうですね、密かに転移してユリ様を連れ帰る、などということができるのはブランシェ様ぐらいしかできません。魔術院のほかの人間では不足でしょう」
「では、ブランシェ様を」
「了解しました」
すぐさまアーロナは飛び、ローンレーと宰相が残される。
「陛下にお知らせしておくかどうか」
「その前にアンネローゼ様にお話をされては?」
「それもそうだな、あの方なら話は早い」
全くそういう意味では頼りにならない、と判断された陛下は、今も見張りつきで執務中である。
「申し訳ないが、しばらく付き合ってもらいたい」
「いえ、私もユリ様のことは心配ですから」
途中から参加したとはいえ、ローンレーは彼女の境遇には酷く同情している。
ようやく男二人が動き出す。
ユリが無事である、という保障を得られないまま。
「ユリが?」
割とユリのことを気に入っているアンネローゼが扇で口元を隠しながら口を開く。
リティもまた、怒りのあまり、思わず宰相を睨みつける始末だ。
迫力のある女性二人に圧迫され、男二人はやや押され気味だ。
「さっさと突入すればよいではないか」
「ですが、証拠が」
「アーロナの魔術はそれほど不確かなのか?」
「そういうわけでは」
魔術とは便利なものだ。
こうやってユリの居場所も探すことができれば、能力さえあればどこかを盗み聞きすることもできる。
だが、物的証拠、という観点では、何一つ提供することができないのも事実だ。
傍観者全員にことをつまびらかにする、つまり全ての人間に同じものを見せ、同じものを聞かせることができれば証拠にもなろうが、魔術師ただ一人が見た、聞いた、だけでは証拠にはならぬ。
それがたとえアーロナのような宮廷魔術師だとしても、相手がそれは気のせいだと、突っぱねてしまえばそれまでなのだ。
まして相手は王太子。
かたやユリは一介の侍女。
彼女がリサゼルの館に閉じ込められていたとして、それを宰相やアンネローゼがどうこうできないのだ。アンネローゼがただ気に入った侍女だから返せ、と言い募ったところで、こちらも気に入ったから代わりのものをよこす、と言われておそらく終わりだろう。
さらに宰相側に心理的に不利な点は、ユリが異世界の人間である、ということを知っているところだ。
まして、ただ一人陛下の子を産む可能性のある人間だ。
そして、陛下が呪われていることを知っている人間でもある。
下手に執着心をみせ、彼女が敵対勢力に対し有益な人間だと知られるわけにもいかない。
こっそり忍び込んで、こっそりと連れてかえる。
それが理想であり、最適の方法だ。
相手にしてもアーロナまで出てくるとは思ってはおらず、その術は使えないが、さらにはダレンのような魔術師が控えていることも想定外だろう。
たかが侍女、その油断こそが唯一宰相側が相手に付け入る隙なのだから。