陛下、事件です/第2話

「ユリちゃん、いいかげん結婚しない?」
「寝言は寝てから言った方がいいよ」

絵本のような簡単な説明しか書かれていない本を渡され、ユリはせっせと読み書きの練習に励む。コツコツとやっていたせいなのか、店の看板や品物の名前程度は自ら書けるようになっている。そこから先は本当に必要があるのかないのかわからないが、今の侍女暮らしを続ける限りは、どちらかといえば必要なものだろう。
日本にいたころはそれほど勉強が好きではなかった彼女も、それがとりあげられ、学びたくとも学べない環境にいたせいなのか、ダレンの言うことを聞き、熱心に学習に励んでいる。
が、それとこれとは話しが別とばかりに、ダレンの幾度目かの求婚の言葉を一笑に付す。

「だって、一緒に暮らしても平気なんでしょ?」

あまり例のない通いの侍女として生活していた彼女は、あまりの不便さに結局王宮内の使用人が与えられた施設へ移り住んだ。それにあっさりとついてきたのはダレンで、今は町へ通いながらも、この施設付近で医者の真似事のような仕事をこなしている。
どういうわけか、同時にやってきた二人を、周囲のものは夫婦とみなし、ダレンはわざと、ユリはうっかりとその状況を訂正しないままでいる。
全くの赤の他人だけどわけあって一緒にくらしています、という説明がうそ臭いせいなのかもしれないが。

「平気だけど、別にそういうわけでは」

ユリは今のところダレンに恋愛感情を抱いていない。全てを知っている彼のことを頼りにしてはいるが、どちらかといえば兄や、下手をすれば父に対する感情に近く、それ以上のことは考えたこともないのが実情だ。
年齢の割りに幼いのは確かで、しかしながらそれを嘆いていてはユリと付き合うことなどできない。

「でも、離れるのは嫌だよね?ね?」

ダレンと暮らすようになり、ユリはこれほど信用できるだれかと共に暮らす生活が安心感をもたらすのか、ということを痛感している。死に掛けたところを格好よく助けられた、という体験によるところも大きいのかもしれないが、やはり事実を知っている、ということが精神的安定へ大きく寄与しているのかもしれない。ようやくできた縋れる相手の手を離すのは忍びなく、だからといって結婚したいか、と言われれば首を傾げざるを得ない、という中途半端な状態だ。
ダレンに少しだけ申し訳なく思っているユリは、とりあえずうなずく。
そうすればダレンは満足して、ユリが必死にこなしている課題の解説をはじめてくれるのだ。
もはや日課となったやりとりを行い、ユリの一日が終わる。
ダレンのおかげで可能な入浴を堪能し、ゆったりと寝具の上で眠る。
仕事は多少鬱陶しいことが多いものの、適正やり僅かに多い賃金を与えられたユリは、概ね満足する毎日だ。
こんな日々が毎日続くように、と祈る気持ちもむなしく、やはりユリに対する風当たりは強いのか、不運は続く。
それが異分子へのこの世界の反発、なのかもしれない。



 ユリはいつものように機嫌よく職場へとでかけ、頭に何か衝撃を受け、昏倒した。
気がつけば物置小屋のようなところに押し込められており、両腕は胴体と一緒に縄で縛り上げられていた。
手が使えないせいで、横たわったままの体をうまく起き上がらせることもできず、芋虫のようにあちこちはいずりながら様子を伺う。
ユリが動くたびに床本来の色がでてくるほど埃が積もった部屋は、動くたびに咳き込みそうになる。それすら防ぐことはできずに、ユリは動きながらもくしゃみをしながら、涙を流していた。
どれほど格闘していたのかはわからないが、ようやく首謀者と思わしき人間が現れ、ユリの括られた両手首へとつながる縄を無理にひっぱりあげ、背中に片足を乗せる。
犯人をみるどころか、息をすることすら難しく、激しく咳き込む。
そんなユリなおおかまいなしに、犯人は背中越しに彼女の耳元で囁く。

「殺されたくなかったら言うとおりにしろ」

個性的な感性の欠片も感じさせない陳腐な言葉を吐き、犯人が犯人らしい脅迫行為を行う。そのことに半ば呆れ、半ば感心しながら、なんとか呼吸が楽になるよう体をねじる。

「何も見るな、何も聞くな、おまえは言うとおりにしていればいい」

そういうことを言う人間の百分の一の言葉も信用できない、と口には出せないユリは、なおもあがく。

「お前はこれを茶にたらしこめばいい」

柔らかな布に包まった何か、を、彼女の眼前に放りなげる。

「必ずやるんだ」

誰が、やるか、そんなこと、という言葉はやはり声にならないまま、さらに息が苦しくなっていく。

「いいか、アンネローゼの茶に入れるんだ」

(アンネローゼ様?)

意識がぼんやりとし始めたユリに、なおも犯人は脅しをかける。

「お前のことはいつも見張っている、言うことを聞かなければ殺す。いいか、お前の行動は手下に見張らせている、やらなければ確実に殺す」
「……」
「殺されたくなかったら言うことを聞くんだな、期限は三日」

再びユリは意識を失い、気が付いたときには、縄は解かれ、違う場所に寝転がっていた。
その足で彼女は、さっさと宰相のところへ行き、例の渡された何か、を差し出した。

「こんなのもらったんだけど」

ユリが体調を崩して仕事を休んだ、という情報を伝えられていた宰相は、その本人が機嫌は悪いものの、素晴らしく元気な姿で現れ、驚く。
確かにある意味頑丈そうではあるが、そこはか弱い女の身、体調の一つぐらい優れなくもなる、と心配をしていたというのに。おまけに、どう考えても剣呑なものを持ち込む始末だ。

「これ、ですか」
「アンネローゼ様の茶に混ぜろって脅された」
「脅された?」
「うん、なんか見張ってるから、絶対殺すとかって言ってた」
「ちょ、ちょっとまってください、ユリ様。それって」
「アンネローゼ様身重なのに何考えてんだか」
「いいえ、いや、それもそうですが、ユリ様、見張られてるっておっしゃいました?」
「うん、やらなかったら殺すって、手下が見張ってるとかなんとか」
「だったら、危ないのはユリ様じゃないですか?」
「へ?そう?」
「そうですよ」

今までも職場も、当然育った世界でも、そのようなやりとりに慣れているわけではないユリは、痛いことをされたことへの怒りはあるものの、そのことがどれだけ身辺に危機をもたらすか、ということにあまり実感がもてない。だからこそ、おびえるでもなくこのように堂々と宰相のところへぶつをもちだしつつ、訴える、などということができてしまったのだが。

「ともかく、これはこちら側で処理しますので、ちょっと待ってくださいユリ様、絶対そこを動かないでくださいよ」

執務室には通常数人の文官が同席している、しかしながらユリが来た時点で、彼はそのものたちを退席させている。ユリに対する気遣いなのだが、運んできた内容が内容だけに、他のものに知られずに良かったと、宰相は密かに安堵する。

「アーロナにこれを渡して相談してきますから、いいですか、絶対絶対動かないでくださいね、ローンレーに伝えて適当なものをこちらへよこしますから」
「よくわからないけど、そうする」
「よくわからなくっても本当にそうしてください」

貧弱な宰相のいつにない迫力に押され、とりあえず黙って頷く。
上等な腰掛に座り、手持ち無沙汰になったユリは縛られた手足を確認する。しかし、何もなかったかのように体のどこにも跡は残っていなかった。それが何がしかの力を持った人間の介在を示しているかのようで、ここにきてようやくユリは小さく怯えた。
ゆっくりと丁寧に扉を叩く音がして、そんなものに神経を逆撫でた自分を笑い、扉を開ける。
所謂武官、という装いをした男が、穏やかな笑顔で立っていた。

「お迎えにあがりました」
「ああ」

宰相の、という言葉を飲み込む。
一介の侍女がこうやって堂々と執務室へ乗り込むことすらおかしいことなのに、さらに迎えまでよこす、というのはやはり奇異なことだろう、と、咄嗟に考えてしまったのだ。
先ほどから神経過敏となっている彼女は、余計なことまで考え込み、それらすべてを飲み込んでしまった。
だから、易々とその武官は宰相がどう説明したのかはわからないが、ローンレー氏の部下か何かだろう、と判断し、無言で彼にくっついていくことにした。
王宮の中央施設を警備係が目礼する中退出し、何も言わない男に従う。
彼はユリが行く場所を知っているのかすらわからなくて、だけれどもなんとなくそれについていくしかなかった。
ようやく、ユリがあてがわれた宿舎付近にたどり着く。
まだ勤務時間なため、彼ら彼女たちの姿はどこにもなく、周辺は閑散とした雰囲気だ。恐らくダレンですら町へ出て、何がしかの仕事をしているだろう。
誰もいない部屋を想像して、ためいきをつく。
記憶があるのはそこまでで、ユリは今日三度目となる暗闇の中へ落ちていった。


9.10.2009
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