誰のためにバラは咲く?/第6話

「やっぱり、やぶだったんだ、あいつ」

物言わぬ主人の世話をしながら、あの人相の悪いやぶ医者を思い出す。
主の傷口は綺麗にふさがれ、今ではまったくその痕跡を見出すことはできない。
それに引き換えわが身は、と、長い袖をまくりあげ、傷口をなぞる。
主人の治療にどれほどの金銭がやりとりされたのかは知らないが、結局のところ金さえあればなんでもできる、というのはユリがいた日本でも変わらない。
ただし、それが全てではない、ということも、今廃人のように衰えた主の姿を見て、思い知らされもする。

「まだまだこーんなに綺麗なのにね」

枕の上に左手を差し入れ、頭部を持ち上げる。
右手に持った櫛で、主の髪を梳く。
綺麗な土色の髪は、ちらほら白髪が目立つものの、日ごろの手入れが良いのか、未だに艶を保っている。
何もしないまま放置されたユリの髪とは異なり、見比べながら以前の暮らしを思い出してしまう。
あの頃は、シャンプーだってトリートメントだって使いたい放題だったな、と、必死だった頃はあまり思い出すこともなかったことを断片的に思い浮かべては、頭から振り払う。

「言ってもしょうがないんだけどさー」

結局例の世話係たちは辞めさせられたようで、ユリ一人が主の世話をすることに落ち着いている。さすがに下女の数は変わらないが、もともと今の状態の館を維持するには、人数が多すぎたせいでもある。
あの時とは違う意味で泣き喚いて嫌がった彼女たちも、女中頭のすげない態度に、渋々生家へと帰っていった。

「っていうか、私誰にも話したことないんだよねー」

意識が戻っているのかいないのか、ぼんやりとその瞳だけは開くようになった主は、何の反応も返さない。

「だってさ、別の世界から呼ばれましたー、なんて話したら、頭のおかしいやつって思われるじゃん?普通」

最低最悪な日から数ヶ月、あの王宮内で隔離されていたのは、都合が良かったのだと、今ならわかる。
あれが突然全く自分を世話してくれるものなど誰もいないところに放り投げられては、さすがのユリも野たれ死んでいただろう。
最も、呼び出さなければよかったのだと、根本的なところはそこに行き着くのだが。
あの女魔術師に初めて飛ばされた先は、思い出したくもない日々が続いた。
そこでユリは、生きたいのなら強くならなくてはいけない、という価値観を嫌というほど叩き込まれた。
今となっては、流転の人生でもそれなりにそこそこ幸せを見つけて暮らせるようになった。
それでも、時折押し寄せる郷愁は、どうしようもできない。
心だけがどこかへ行ってしまったかのような主を、車椅子のようなものに乗せ、中庭へと進む。
ユリの知らない綺麗な花がぽつぽつと咲き始めた庭園は、専門の庭師によって綺麗に整えられている。

「ご主人様、気持ちいいですねー」

うす雲がかかった空の下、ユリはのんびりと主と散歩する。

「今回は結構長いなぁ。つーか、このままこなきゃいいのに、あいつら」

時折思い出したくもない顔を思い出しては悪態をつく。
よりにもよってこの自分を繁殖のためだけに呼び出したあいつらのことは、逆立ちしたって好意をもてるはずがない。
世話をしてくれた女の人だけは、それなりに人が良さそうだったけれども、あの連中の仲間だと思えば、かけらだって好きにはなれない。
毎日が穏やかに過ぎていき、主が心を失ったことで初めて、この館に平穏が訪れた。
穏やかに笑いあう使用人たちは、ようやくその職務だけに没頭できるようになっていった。

「よくやってくれて、感謝しています」

主を昼寝と称して床に入れ、ユリは、女中頭のお茶に招かれている。
仕事と言えば最低限の屋敷の管理のみとなった彼女にとっては、こうやって世間話をする時間も良い息抜きとなっている。

「仕事ですから」

十分な給金をもらっているユリは、別に感謝されるようなことをした覚えはない。
ちなみに、この閉鎖的な国では、唯一どの国でも使用できる金貨が全く流通しておらず、その代わりにこの国特産だという貴石をその報酬に値する量受け取る、といった体裁を、ユリだけはとっている。下女だった頃はそうもそういうわがままを言える立場ではなかったが、格上げとなったときの条件として、ちゃっかりと組み入れたのだ。

「孤児院育ちだそうね」
「ええ、まあ」

そういうことにしているユリは曖昧に答える。
エスやその他の下女たちからこの国の孤児院事情を聞き取ってはいるものの、具体的な名前を聞かれては困ってしまう。

「その割には色々なことをご存知ね」

国を転々と、やれることはできるだけやり遂げていた経験は、隠し通せるものじゃない。まして前回徹底的に執事夫妻にそれなりのことを教わった身だ。

「院長先生が厳しい方でしたので」
「きっと、良いおうちの出身でしたのね、あなたの雰囲気からはそう感じられるわ」
「さぁ、私は両親の顔を知りませんので」

この国の基準で考えれば、いたって庶民だった彼女の出自は、それなりに良いところ、と判断されるのかもしれない。まして教育水準を考えれば、比べ物にならないほど彼女はそれを与えられている。

「正直なところ、安堵しているのです」
「安堵、ですか?」
「ええ、こうなって初めてお嬢様が落ち着いてお暮らしできるようになった、と、そう思えてならないのです」

うっすらと滲んだ目元に指先を軽く押し当てる。
小さい頃からここの主をみてきた彼女ならではの言葉、なのだろう、
大輪の花のように、艶やかに、華やかに暮らしてきた主が、心うつろながらも、ようやく人間らしい生活をしている。賞賛、嫉妬、それら様々なものから遠ざかって初めて、主の心は平安をもたらされたのかもしれない。

「もう少しだけ、心が戻ってこられればいいんですけどね」

あれだけ酷いことをされたというのに、世話をすれば情がうつってしまったユリが嘆息する。
緩慢な動きながらも、日常の生活をぼんやりと過ごしている主は、その一日をほとんど霧の中で過ごしているようなものだろう。
時折笑顔を見せることがある、というのが最大の好転だが、それ以上主は感情を表すことはない。まして、言葉を口にすることも。

「伯爵も、わざわざあんなことをなさらなくとも」

あの日、美貌の新妻を連れた伯爵は、とりたてて悪意があったわけではないらしい。
ただ、新しい妻を得たので、お前はここでのんびりと暮らせと、この主にとっては最後通牒にも似た言葉を投げかけただけだそうだ。
それが、主にどういう作用をもたらすのかも知らぬほど、伯爵は、彼女の中身には興味がなかったようだ。
まして、目の前に己の価値の全てだと、驕り誇っていた主に対し、完璧な若さと美貌というものを兼ね備えた女性を見せ付ける。という屈辱までも味わわせていたのに。
結局、夫婦と言えども心通わず、また通わせる努力をすることもしなかったのだろう。
主の心は壊れた。
あの女性もまた、主と同じような道をたどるのだろう。
伯爵がその過ちに気がつかないままでは。


5.23.2009
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