つぼを片手に抱え、ユリがあっさりとそんなことを言い出す。
金は天下の回り物、とは言ったものの、貧乏人のところには回ってこないのが現実だ。
ユリは、金も身よりもなにもない人間に対する世間の仕打ち、というものを痛いほど知っている。
「わ、わたしも」
「エスには無理。エスの仕事は水汲み」
わけもわからず口にだしたエスは、ユリのその一言で、また黙々と水汲みの仕事へと戻る。
女中頭は、ユリを一瞥し、地面へと頭をこすり付けている少女たちへと視線を戻す。
「仕方がありません、確かにこのままでは時間の無駄です。あなたは着替えて、私についてきなさい。労働に対する対価はきちんと支払います」
「それならばこちらこそよろしくお願いします」
「あなたちの処遇は今日中に決めます。端仕事などできない、と言うのなら相応の覚悟をなさい」
さらに皺が刻み込まれたかのような女中頭は、それだけを言い捨て、今までとは異なる女中部屋へとユリを連れて行く。
「これに着替えなさい。寸法はそうおかしくはないでしょうから」
下女の支給服よりは、数段上等な作業服が手渡される。
引きこもり主の家のものよりは劣るが、それでも今まで来ていた衣装よりはずっとましである。
「わかりました、着替えますので」
女中頭を押し出すようにして扉を閉め、さっそく衣装の裏を確認する。
当然手持ちの貨幣を隠せるような場所はないため、仕方なしに腹巻のようにしてそれらを隠しこむ。
外からはわからないようにしながら服を着込み、あらためて女中頭の前へと姿を現す。
「……あなた、どこかで働いていらした?」
「ええ、まあ」
曖昧に答え、女中頭の後をついていく。
早速通された主の部屋は、分厚い布が窓をさえぎり、外の日の光などかけらも入りこんでいない。
「お嬢様、朝食のお支度が整いました」
目配せされたユリは、衣装扉を開け、それに相応しい衣装を準備する。
正直なところ、女性の衣装を見立てた経験があまりない彼女は、女中頭の視線をたどりながら、ようやくそれらしく準備を整える。
扉を開けた瞬間から罵声を浴びせられることを覚悟していたユリは、全く反応がなく静まり返った寝室の扉を見つめる。
閉じられた扉の先には、女主が存在しているはずだ。
だが、どれほど声をかけようとも何の返事も返さない主に、さすがの女中頭も不安な様子になっていく。
「お嬢様?お嬢様?お返事をくださいませ」
控えめに寝室の扉を叩き、返事を促す。
だが、一向にそれが返される気配すらない。
「もしかしたら倒れられているのかも、扉を開けましょう」
「そういうわけには」
「でも、もし何かあったら」
身分の差が、今までのどこよりも厳しいこの国では、主の寝室の扉を勝手に開けることなど、想像もできないことなのだろう。
「わかりました、私が開けますから」
そういい捨てて、ユリがさっさとその扉を開ける。
真っ暗な寝室に、光の一筋さえ見当たらない。
だが、その代わりにむせ返るような血の匂いがユリを襲う。
思わず鼻を覆った彼女は、一拍を置いてすぐ、窓をさえぎる分厚い幕を乱雑に開ける。
突然光が差し込んだ寝室は、扉の向こうで待つ婦人にすらその様子が鮮明となる。
寝台の上には一人の女性。
右手は水盆へと浸され、その水はどす黒く染まっている。
「お嬢様!」
駆け寄ってきた女中頭が、主を抱き起こす。
引き上げられた右手からは、さらに血液が流れ出し、真っ白い寝具を染めていく。
「止血、血、血止めないと」
適当に掴み取った寝具を引き裂き、主の右手をとり巻きつける。
「医者、医者は?あのやぶじゃないやつ!」
先刻全く役にたたなかったあの男を思い出しながらも叫ぶ。
機械仕掛けの人形のように頷いた女中頭は、血で汚れた手をぬぐうこともせず、走り出していく。
(まだ暖かい)
僅かに残った体温に、ユリはその生を確認する。
こんなとき、何もできない自分をふがいなく思う。
手当ても、魔術も、彼女にはただこうしていることしかできないのだから。
ようやく駆けつけた医師のもと、あっという間に主の傷口はふさがった。
だが、流れおちた血液だけは元には戻らず、一向に目が覚めない主を前に、女中頭とユリが交互に世話をやく日々へと突入した。