誰のためにバラは咲く?/第4話

「旦那様がこられるんですって」

ここ数日、上級の使用人たちが神経を尖らせながら、下女たちへと仕事をいいつけている。
女主がこちらへきてはじめて、伯爵がこちらへと足を向ける、ということが理由らしい、というのは、さすがのユリたちにも知らされていた。
もっとも、毎日の仕事にそれほど変わりがあるはずもなく、ようやく傷が癒えたユリも、相変わらずのエスもいつも通りに仕事をこなしている。
大変なのは、直接彼らに関わらざるをえない世話係の人間だ。
やたらと上機嫌な伯爵夫人と、それにあわせて衣装だ、食器だ、茶器だと走り回るようにして準備をしている。
幸い、機嫌の良い主が使用人たちへ八つ当たりをすることが少なくなり、あわただしくも、そういう意味ではつかの間の平和を満喫していた。
それが一変するのは、伯爵がまばゆいばかりの美貌をもった女性と共に、この屋敷へと足を踏み入れたことでもたらされる。
ユリたちが直接見られるわけではないが、女中部屋まで逃げてきた世話係たちによると、女主よりもさらに洗練された外出着を纏ったその女性は、主とは対照的な雰囲気で、だが見たこともないほど美しい女性だったそうだ。

「もうどうしたらいいの?」

おびえる世話係の少女たち三名は、肩を寄せ合うようにしながら、狭い部屋の中で泣きそうな顔でへたりこんでいる。
仕事を代わってくれ、と、持ちかけられたときより、ユリと彼女たちは時折話す仲になっており、下女とはいえかなりの教育を受けたように見えるユリのことを、頼りにする素振りもみせていた。
だからこそ、逃げ場としてここを選んだのだろうけれど。
さすがに、執事やまとめ係の女中頭がここを直接訪れることはないので、正解と言えば正解ではあるが。

「暴れてるわけ?」
「や、まだ大人しい、でも血管がぶちぎれそう」

お互いがぞんざいな言葉遣いになっていることを気にも留めず、おびえきった彼女たちは、次々に部屋の様子を口にする。
数年ぶりに夫たる伯爵がやってくると、舞い上がるだけ舞い上がった主は、突然現れた女性の存在に、打ちひしがれているようだ。
矜持からなのか、その女性の前では、多少引きつった顔を見せるのみで、なんとか応対はしているものの、その鬱憤が世話係へと向けられることは必須で、だからこそ、彼女たちはこうやって逃げ込んでいるのだから。

「どうして連れてくるかなぁ」
「なんか、新しい奥さんって言ってた」
「だったら、都会で二人で暮らしてりゃいいじゃん、わざわざ火種を持ち込まなくても」

この国は一夫一婦制ではない。
金持ちなら、その限りではなく、複数の妻を持つことは正式に認められている。その理由が跡継ぎ問題でも、ただ好色なだけでも、政治的理由でも、きちんと手続きさえ踏めば、誰に文句を言わることもない。
だから、数年省みなかった妻の代わりに、彼が新しい妻を娶ったところで、ここの主がとがめだてできるわけではないのだ。

「離縁とか?そうしたらどうなっちゃうの?ここ」

彼女の存在価値が、その容姿のみにあったとして、確かに伯爵にとっては婚姻関係を続ける利点はないのだろう。
だが、そこはさすがに貴族階級、この主の出身もそれなりの名家であり、父親がいなくなったとはいえ、一族の目がある限りは、そう無体なまねもできない。
せいぜい、ここへ病気療養という名目で、幽閉しておくことぐらいが関の山だ。
世話係の少女と、下女仲間とエス。
それぞれが不安を抱えながら一夜を明かす。

 朝早い下女仲間が、馬車が走り去っていく音を聞いた。
馬屋の世話をしている下男に聞いたところ、朝早いうちに伯爵と、件の女性が帰っていったようだ。
結局、一日も滞在していない計算となる。
静まり返った庭と、水がめと井戸を往復する下女たち。
おびえて、自分たちの持ち場へと帰ることもできないまま、所在無く井戸の周りに集まった少女たちは、手を取り合って怯えている。

「あなたち、どこにいたのです?」

切羽詰った声音で、女中頭が彼女たちへと近づく。
その声はとがめだてするようなものではなく、どこか安堵しているようだ。

「申し訳ありません」
「でも」

顔を見合わせながら、それでも動こうとしない彼女たちを、仕事場へと促す。

「い、いやです」

その手を振り解き、少女たちが逃げ出す。
怒るでもなく、宥めるでもなく、女中頭が諭すように言い含める。

「あなたたちは、他に行くところでもあるのですか?仕事をなさい」

どうせ親元へも帰れないくせに、という言外の言葉は飲み込み、再度促す。
もうこの屋敷に残っているものは、後がないものたちばかりなのだ。ここを逃げ出しても、彼女たちは下女のような仕事か、さらにきつい仕事しかえられず、なまじその生まれ育ちを気にするあまり、そのような仕事には絶対につけない、と信じてやまない。
だが、単純に怖いものは怖い。
鞭をうたれるのも、茶器を投げつけられるのも、酷い言葉を投げつけられることも。
どれもこれも耐えられるようなものではない。

「申し訳ありません、もう無理です。無理なんです」

地面に手と頭をつき、懇願する少女たち。
すすり泣きさえ聞こえてくるその光景は、下男や下女たちの足も止める。
あの主の下ではこれ以上働けない、その主張がわからないわけでもない女中頭は途方にくれる。このままおびえきった彼女たちを主の前へ出したところで、何がしかの失態をつかれ、酷く折檻されることがわかっているだけに、立場をわきまえない彼女たちの態度に怒りを抱きつつも、無理強いはできないでいる。
一人で仕事をこなせばよい、女中頭もそう思いはするものの、今まで自分には向けられなかった怒りの矛先が自らに向くことだけは容赦願いたい、と、自分勝手で問題を先送りするかのような思いの方が強い。
女中頭も、少女たちも、下男下女すら動くことをやめ、場面が凍りつく。
その少女たちの下へ、やはり一人の少女が近づく。

「私でよければ仕事を代わります。埒が明かないし。ただし、給金さえ正当にいただければ、ですが」


5.15.2009
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