誰のためにバラは咲く?/第3話

 数日後、まだ痛む体を引きずりながら、ユリは仕事に復帰した。
最も、水汲みなどの仕事はさすがに無理なため、掃き掃除や簡単な片付けなどを黙々とこなす。
そのユリを遠巻きに伺っていた世話係たちが、周囲を気にしながら彼女へと近寄る。
普段は全く接点がない。彼女たちも女中とはいえ、さらにその上の役職から命令される立場だ。下女とはいえ、ユリに命令することはほとんどない。

「もう大丈夫なの?」
「ええ、まあ」

正直に言えば、ユリの体はまだ不調を訴え続けている。鋭利な傷でない分、内側へともぐりこんだ気持ちの悪さは、なんとも表現がしがたいと、口ごもる。

「あの……。こんなこと言えた立場じゃないんだけど」

ためらいながらもどこか真剣な表情で、彼女たちが言葉を続ける。

「仕事、代わってくれない?頼むから」

だが、もたらされた彼女たちの提案は、あまりにも自分勝手なもので、さすがのユリもあきれ返る。さらには階級社会がしっかりしたこの国では、そもそも逼迫した事情でもないかぎり、ユリのような立場の人間が、女中仕事をすることはできないことが普通だ。

「無理だと承知して、そんなことをおっしゃってるんですか?」
「ええ」

労働階級とはいえ、ユリとは違ってどれだけ脆弱であろうとも後ろ盾となる家のある彼女たちと、ユリは同じ仕事につくことはできない。
ここへ飛ばされた最初にユリが痛感したこの国の絶対的な規則だ。

「それに、私が鞭打たれていたの、ご存知ですよね?」

主がたかが一下女を認識しているとは思えないが、それでも不興をかってしまったことは事実だ。さらには、彼女たちが、ユリがぶたれている間中何もできず、ただ呆然と後ろの方で見下ろしていた姿を忘れることができないでいる。

「それに、そもそも水仕事なんかできるんですか?」

一応使用人の中にも身分の差がある、という建前上、普段は丁寧な言葉を使っていたユリが、思わずぞんざいな言葉遣いとなる。しかし、そんなことは気に留める余裕もないようだ。

「それは、でも」
「毎日早起きして、水汲んで、床拭いて、掃除して。ついでに畑の世話をして、人手が足りなければ家畜の世話もして。できます?それ」

彼女たちの仕事は、主の身の回りの世話と、公式の集まりでの準備や給仕、客人へのもてなし、外出などの際の世話、など、そういった仕事が主である。
そのような仕事をこなすべく雇われ、送り出す側も、それを身につけることを望んでいる。まさしく労働階級が行儀見習いをする最適な職場として貴族の邸宅は存在し、また、ここの女中の多くは商家出身が多い。家へ帰った後、嫁いだとしても彼女たちがユリのやっているような下女の仕事をするとは思えない。

「私、家に帰れないし」

だが、気の利いたものからやめていく、というのはその通りで、帰る場所や、帰るあてのあるものはさっさとこの理不尽な館から姿を消している。
後に残されたのは、娘のことなど持ち駒程度にしか思っていない親や、義理の関係など、わけありの親子関係をもつものばかりである。 後ろ盾がある、とはいえ、そのところの事情はユリたちと似たり寄ったりなのである。

「それに、私にそういう仕事ができるわけないじゃないですか」

前回のおかげで、ユリは正直なところ公の集まり以外の仕事は、確実にこなすことができるはずだ。しかし、ここでは必要はないので、あえて知らせるようなまねはしていない。数日前の主の振る舞いで、本当に世話係などになれなくて良かったと、安堵していたぐらいだ。

「でも、あなたってなんでもできそうじゃない」
「買いかぶりすぎです。できないものはできませんし、やるべきじゃありません。ほら、さっきからこっち見てますよ?いいんです?」

この家の奥を取り仕切っている女中頭が、こちらを、いや、女中たちを睨みつけている。彼女の姿を見て、少女たちはくもの子を散らすかのように消え去り、ユリは再び、箒をもって、廊下を掃き清める作業を続行する。

「もういいのですか?」

まさか、その、女中頭に声をかけられるとはおもわず、彼女はゆっくりと顔を上げ、しばらく色々な言語が彼女の頭の中を駆け巡った。

「いいわけではないのですが」

毎日毎日、あの人相の悪い男の相手をするのが嫌になったのだと、正直に言えないユリは口ごもる。
病気治療の名目で、ユリたちの部屋に入り浸るあの男は、呪い師に毛が生えた程度、といった自称に違わず、全くもって役に立たなかった。
包帯を巻くことが手馴れている程度で、傷の直りが良くなるわけでも、痛みが軽くなるわけでもなく、ただただ毎日世間話をしにやってくる有様だ。
知らないことを知ることが好きなユリも、あの辛気臭い顔を相手にすることはさすがに少し辛くなり、あの親父を振り切ってこうして現場へと復帰したのだ。
おかげでこの家のことも、この国のことも大分詳しくなった。
前者はともかく、後者は重要なことだ。
特に貨幣に関する情報は、彼女の今後の人生を左右するといっても過言ではない。

「あまり無理をしないように。結局困るのは自分自身なのですから」
「はい」

軽く頭を下げ、掃除を続ける。
女中頭は、ため息をつきながらユリに世間話をもちかける。
彼女は、どの国へ行ってもこの手の人間にこういう風に話を持ちかけられることが多い。
おかげで必要な情報も不必要な情報も知ることができるが、そういう人相をしているのだろうかと、夜になったら鏡で確かめようと、上の空で女中頭の話に相槌をうつ。
やぶ医者と似たり寄ったりのこの家の主の愚痴は、ある意味一番近い位置にいる彼女にとっては、まさに切実なものであるらしい。
さすがに前回の蛮行で、さらに使用人がやめていったらしい。
今残っているのは、ユリに仕事の交換を持ちかけた世話係数名と、下女四名と下男二名、それにそれを取り仕切る彼女と、この屋敷を代々管理している執事の男性のみらしい。
隆盛期を知っている女中頭にとっては、今のこの状態はとても寂しく、また惨めなもののようだ。

「これでは茶会の一つも開けやしない」

こちらへ押し込められてしばらくしてからは、それでも女主は茶会だ、昼食会だ、夜会だと、頻繁に華やかな催しを開いてはいたらしい。
伯爵と暮らしていた都会と違って、田舎であるこの町では、主の容姿は未だに特別視されるものであり、まして都会で洗練された彼女の立ち振る舞いは、所詮田舎者たちの羨望の的でもあったようだ。
しばらくは、伯爵からの賞賛の代わりに、周囲の人間からの世辞に満足していたらしいが、やはり、どうあがいても月日の流れに逆らうことはできなかった。
さらに加速して現れる老化、どれだけ田舎臭い雰囲気であっても、若さというものが全てを覆い隠す少女たち。
年頃だ、というだけで日々美しくなっていく彼女たちを視界に入れることが苦しくなっていった主は、徐々に周囲との付き合いをしなくなっていったようだ。だからといって、自分よりも上の年齢の人間とは辛気臭くて付き合いきれない、と言い捨てる性格では、到底うまくやっていけるはずもなく、ここのところの屋敷では、茶会すら開かれてはいない。

「はぁ」

気のない返事をしながら、ユリは箒を動かす。
利害関係の全くない彼女に愚痴をこぼして、多少すっきりしたのか、女中頭は大きなため息をつきながら仕事へと戻っていった。
結局、使用人が幾人か辞めたものの、根本的に抱える問題は、何一つ解決されないまま、さらに月日が過ぎていった。


5.11.2009
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