誰のためにバラは咲く?/第2話

「おはよー」

馬の世話をしている下男たちと挨拶を交わしながら、ユリはエスとともに、水がめに水をくむ。
手馴れたもので、日本ではやったことがない作業も、今では楽々とこなしている。
時折、文明社会を思い出しはするが、いくら思ったところで、目の前にそれが出てくるわけではなし、ユリは振り払うように、黙々と作業を繰り返す。
珍しいことに、やたらと機嫌が良い主の姿が視界の隅に入る。
慌てて深くお辞儀をして、視線をあわせないようにする。
ここでは、彼女のような立場の人間は、主とは気安く会話どころか、視線すらあわせてはいけない決まりだ。
だが、エスは、そういう細かい決まりごとを覚えるのが苦手だ。
まして今は、ユリとともに「水を運ぶ」という仕事をしている最中だ。
他のことに気を配れるはずもない。
わずかに郷愁に浸っていたユリにしても、エスに対する気遣いが遅れた。
常ならば、つぼを奪い去ったのち、直ちに短く礼、と命令をかぶせるはずなのに。

「無礼者!」

その結果、エスはつぼごと倒れこむほど激しく主にぶたれ、あっけなくもそれは割れ、エスの左腕に無数の切り傷や刺し傷を作り出す。あまりにかけ離れすぎた原因と結果に、周囲のものはみな、固まったまま動けないでいる。
さすがに、飛び散った赤い血に、やや怯んだものの、主は、裾についたエスの血痕にさらに激昂する。
ようやく動けるようになったユリは、慌ててエスを自分の体を使ってかばう。だが、すでに周りのことなど見えなくなるほど感情が高ぶった主は、己の行動を邪魔されたことにさらに腹を立て、二人の体に向かって鞭を振るう。
誰もとめることができないその蛮行は、主が両肩で息をするほどまで繰り返され、血だらけのエスと、いつのまにか気を失ったユリは、主がその場をさってすぐに、女中部屋へと運ばれた。


ユリは、夢をみた。
携帯電話でトモダチとメールをして、コンビニに行って肉まんを買って、たっぷり張られたお湯に体をゆったりと横たえる夢。
どれもこれもつまらなくて、当たり前だった日常。
もがいて、手を伸ばして、全部消えていく。
息苦しくて目が覚めたユリは、人相が悪い男がこちらをのぞき込んでいることに気がついた。

「気がついたか」
「……あんた、誰?」

夢と現実が混じりあった状態のユリが、意識をはっきりさせるべく、とりあえずの疑問を口にする。
徐々に鮮明となっていく記憶と、強い寂寥感が襲う。

「医者、といっても、まあ、呪い師みたいなもんだ」
「ふーん」

さすがに、いくら下女とはいえ、人死にが出てはまずいらしい。
申し訳程度だが、一応医者のようなものを呼んでくれていた。

「エスは?大丈夫?平気?」
「おまえさんはまず自分の心配をしろ。まあ多少の痕は残るだろうが、傷そのものはそう酷いもんじゃない」
「そっか…。私が遅れたから」

エスがそういう人だとわかっていたのに、対応の遅れた自分に悔いていたユリは少しだけ安堵した。

「変わったやつだなぁ、おまえは」
「そう?」
「ともかくゆっくり休むことだ。俺としても久し振りの仕事らしい仕事で疲れちまった」

久し振りの仕事をする医者、というものがどれほどの腕を持っているのかを考えたくもないユリは、人相の悪い男と、自らに施された手当ての形跡を交互に眺める。
知らない男と二人きり、という自意識過剰でなくとも、あまりくつろげるものではない。まだ言い立てるほどの気力も体力もわいてこないユリは、ただ押し黙ることで早期の退出を祈るしかない。
しかしながら、そのことに全く気がつくそぶりも見せない医者は、どっかりと座り込み、さらには昔話まで始める始末だ。

「ここの娘さんにも困ったもんだ」

だが、昔から主を知っているかのような口ぶりに、体中が痛みを訴えているにも関わらず、僅かな好奇心がうずく。
そもそも、ユリたちのような下女は、ここに夫たる伯爵が寄り付かないせいで、彼女の機嫌が悪い、といった程度の情報しか得ていない。
おしゃべりが好きな使用人たちも、階層が異なるユリたちには、そういった情報はもらさないのだ。

「昔からこうじゃないんですか?」
「いいや、昔はこんなことはなかった。そもそも小さい頃から美しいと評判の娘だったよ、まあ、昔の話だがね」

医師の話によると、この屋敷はそもそも主が育った生家であり、父亡き後、一応その伯爵夫人がそもそもの持ち主らしい。
もっとも、財産は男がつぐもの、といった慣わしになっているこの国では、彼女の夫が正式なここの跡取りとなっているようだが。
その彼女が、そもそも伯爵に見初められたのは、その際立った美貌からであり、幾度もの熱烈な求愛にようやく、といった形で、彼女は伯爵家へと嫁いでいったらしい。
その美貌を愛することこの上ない伯爵は、彼女の肖像画を描かせてはそれをお披露目し、彼女の美貌が最も引き立つ衣装を纏わせながら、舞踏会を開催する日々を過ごしていたそうだ。
その風向きが変わり始めたのは、数年前のこと。
気がつけば、子供をもうけず僅かに年をとった彼女の容姿は、当然のことながら、徐々に色あせていった。
薔薇の花を思わせるほど、鮮やかな美貌は、かえってその衰えが目立つものなのかもしれない。
美貌に惹かれていただけの伯爵は、その興味はさらに若く、容貌の良い女性に注がれ、やがて彼女には向けられなくなっていった。
それに黙って耐えられるほど、彼女の性格はおとなしくも、我慢強くもなかったのが不幸ではあったのかもしれない。
悋気を起こして、家中のものをひっくり返す彼女にすっかり嫌気をさした伯爵は、病気療養を理由に、彼女をこの生家へと押し込めてしまった。
気鬱の症状はさらに悪化し、使用人たちへ八つ当たりすることでは到底解消されない鬱憤が、ますます蓄積されていく。
主は、その悪循環を断ち切ることができず、今日のように爆発させては、使用人たちがやめていく。
ユリに限って言えば、やめてもいくところがないので、このまま居座る気でいるが、エスはどうするのだろう、と、医師のおしゃべりに耳を傾けていた彼女は、不安になる。

「まあ、当分安静にするこった。ここの執事には、泣き付いておいたから、寝ていても給金はでるそうだ。さすがに外聞が悪いんだろうなぁ」
「それは願ったりかなったりで、色々とありがとうございました」

半身を起こそうとするユリを制し、やはりどれほど慣れても人相の悪い医師が退室する。
入れ替わりに入ってきたエスは、包帯を巻いた手を全く気にしない動きで、ユリの側へとかけよる。



「大丈夫?」
「大丈夫」
「エスは?」
「なあに?」
「怪我は」
「うん、大丈夫」
「ここ、やめる?」
「どうして?」
「ううん、なんでもない」

ニコニコと、ユリの右手をさすりながらエスが顔を覗き込む。
何も邪まなものがない笑顔に、ユリが微笑み返す。

「ちょっと寝るね、熱が出たみたい」

全身の痛みから来る発熱に、ユリに眠気が襲う。
エスも、ユリ同様、どんなことをされても、行くあてなどないことを思い出しながら。


5.8.2009
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