何事もなく数ヶ月が過ぎる。
有里がようやく、こちらの生活にもなれ、おしゃべり好きな婦人のおかげで、この国の情勢も理解することができた。
伝統、といえば聞こえはいいが、唯々諾々と歴史の名のもとに続いてきた王家は、退廃の一途をたどり、とうとう享楽の限りを尽くした先代は、蟄居という名の牢獄に静かに幽閉され、国王とともに贅を尽くした妃たちは、帰る場所のあるものは帰され、また、ないものは修道院らしきものへと送られていった、という基本的な情報などだ。
その改革のおり、王家そのものをつぶしてしまおう、という案はあったそうだが、またそれも、王家とともに甘い汁を吸い続けてきた貴族連中の老獪な戦術とともにうやむやとなったそうだ。
もっとも、急ぎすぎる改革は、失敗の元だと、有里ですらわかっていることだが。
辛うじて残ったまっとうな頭を持つ傍系の男を玉座に据え、再び王国がまともに動き出したのがここ十年ほどのことらしい。
たくましい商人たちは、王様が変わろうと、政治が変わろうとも、したたかに商売を続け、今ではそれなりの工業国家として名をはせている。
もっとも、それもこのところの不況のせいか、停滞気味ではあるらしいのだが。
その中で、いくら先先代が築き上げた事業とは言え、全く仕事をしている風ではない当主が、どうやってその事業を維持しているのかはだはだ疑問ではるが、彼が姿を見せなくともなんとかなる体制が整っているのだろう。
それがどういったものなのかは、有里の想像の範疇ではないのだけれど。
「そういえば、この国って魔術師っていないんですね」
有里にとって驚くべきことは、フィムディア王国では日本における、大学の先生ぐらいの人数で存在していた魔術師が、この国にはほとんど存在しない、という事実だ。
もちろん、前の国でもその数は王国程ではなかったが、それでも呪い師程度の連中は、それこそ歯医者程商売をしていたし、その前の国では、数は少ないものの、この国ほどいない、ということはなかったような記憶がある。
日課の食事の下ごしらえをしながら、有里は婦人との語らいの中で、不意に疑問を口にする。
「ああ、よその国ではもうちょっといるみたいだねぇ、だけどこの国はとんとそういう人間がでないのさ。水が悪いのかねぇ」
「水、ねぇぇぇ。確かにまああれも才能あってのことっちゃことみたいだし」
日本にいたころの有里にとっては、魔術とは本や映画や漫画の中での出来事であり、実際にそれができると豪語する人間は、鼻で笑うか失笑するか、そのどちらかでしか対処しない彼女ではあったが、こちらの大陸では、それはごくごく普通に存在する技術である。
そう、魔術は技術の一つなのである、少なくともこの大陸内においては。
神秘的な力やそれを元にした秘術などといったものは一切関係なく、それに関する才能を有しているかどうか、またそれを有益に利用できるよう努力を惜しまないか、が、その技術の幅や限界を決定する唯一のものであり、絶対のものである。
つまるところ、速く走ることができたり、記憶力が抜群に良かったり、といった肉体的、頭脳的特徴の一つであるらしいのだ。
だから、走れる人間は少なくないけれども、それが商売になるほどの人間は一握りであり、生活ができるほどの魔術が使える人間も一握りなのだそうな。
覚えることができるのなら、何がしかの魔術が誰にでも使えるそうなのだが、魔術の種類には物理的、精神的、呪術的、空間的その他多くの要素が絡みあい、そのどれに才能が発揮されるのかがわからないようでは、それこそ雲を掴むような話でもあり、一般的な人間はそれをやろうともおもわないらしい。
ただ、本当に一握りの中のごく一部には、最初から才能を発揮する人間もおり、おそらくオリンピックに出られる選手や、ノーベル賞をとるクラスの学者だと有里は理解しているが、そういう連中は、それこそその才能と技術で国の中枢に入り込むような立場となることも可能だということだ。
その一握りの人間はおろか、呪い屋のような人間すらこの国には存在しない。
恐らくそのような国は珍しく、それもこの国の伝統の一つなのかもしれない。
「だから、機械が発達したともいえる、か」
「他はもっと不便なんだろ?どうせ魔術なんて一般の人には利用できないんだから、ウチみたいな方がいいに決まってる」
魔術を利用するには対価が必要だ。
その力が大きければ大きいほど、より高額な金額が要求される。
優秀な魔術師の中には、それこそこの国の端から端へと人一人を移動させる程の技術を持つが、その対価はおおよそ金貨一枚である。
この世に、どれほど金貨一枚を払って、わざわざ移動しなければいけない用事がある人間がいるのか。
金貨一枚あれば、家族五人が、ほぼ一年は暮らしていける。
「でも、熱冷ましぐらいの役には立つんじゃない?」
庶民の中で最も利用されている魔術といえば、医療に関することだ。
化学的に合成された薬というものがほとんど存在しない大陸においては、その技術は、たとえ気休め程度だとしても役にはたつ。
だからこそ、庶民の中でもいくらかの割合で、そちら方面へ進む人間もいるし、国によっては積極的にそれを推進している。
「何言ってるんだい。そんなあやしいものより、ちゃんとした薬があるだろう?それを使った方がはるかに安いし安全だよ」
「まあ、ここは結構いい薬あるしねぇ、確かに。それ以上ともなると神頼みだし」
魔術に頼ることができなかったこの国では、当然医療技術も日本と同じ方向で発達をした。
もちろん、あれほどの施設も技術もないけれど、恐らく昭和初期ぐらいの技術はあるのではないかと、有里は推測している。
だから簡単な手術もおこなえるし、割とどの病気にも適応できるだけの種類の薬も開発されている。
逆に魔術に頼り切っている国では、金持ちほどその恩恵に預かる図式がより傾斜してはっきりしている。
それもこれも、その技術料がこの国の医療費よりも高額なせいであり、何でもできることが可能だが、それには庶民には一生かかっても無理なほどの技術料が必要であるということだ。
民主主義、自由経済で育った有里にしても、そちらには若干のむなしさを感じないでもない。
「ま、割と居心地がいい国だし、別にいいけど」
魔術師といえば、有里をこんな境遇に追いやった張本人であり、その存在がいないことは、気分的には喜ばしい。
だが、そんなことを口にだしてしまったせいなのか、災難は急にやってくるものである。
その災厄は、執事が客だと、例のあれを、有里の前に連れ出すことで降りかかってきた。