人生をあきらめたわけじゃない/第2話

 端的に言うと、子供のわがままだ。
珍しく早起きした主に、朝食を給仕しながら有里は考えた。
何が気に入らないのか、猿のようにキィキィと騒ぐ主を尻目に、彼女は淡々と次の料理を主の目の前へと運んでいく。
足元に投げ捨てられたフォークやスプーンを拾い上げ、新しいものを給仕する。
再び打ち捨てられたそれらを拾い上げ、黙ってまた新しく差し出す。
幾度か続いたそのやりとりは、最後には息切れをした主が、渋々冷え切ったスープを口にすることで収まり、彼女はやはり黙々と空いた皿を下げては、新しい料理を彼に届け続ける。
きっかけは、フォークがまっすぐにそろっていない、と、難癖をつけたところから始まったはずだ。
それは申し訳ありません、と、何の感情の乗せない謝罪を口にしながら、それを肉眼ではわからないほどわずかに整えなおし、彼の給仕を続けた有里の態度が気に入らなかったらしい。
癇癪をおこしては、次々と食卓用金物を投げ捨てる姿は、とても貴族とは思えない。だが、初老の男、自らを執事だと名乗ったが、彼の妻が作った料理を台無しにするほど激昂はしていないようだ。
そこがあほらしくもあり、有里が内心笑っていられる要因だ。
彼は些細なことですぐに癇癪を起こす。
だが、それは決して他の人間に肉体的被害をもたらすものではなく、ただ耳元の蚊のようにうるさく怒鳴り散らすだけだ。
それも、どこか冷静な部分で、壊れ物がでないように配慮する遠慮までしている。
一度、偶然にも、有里が活けた花を、花瓶ごと粉々にしたことがあるが、目に見えてわかるほど青ざめながらも、口では激怒していた。
そういったことがあからさまに透けて見えるからこそ、有里はこうして平然とこの偏屈な主に仕えていられるのだ。
もっとも、彼女は衣食住が保障されて、割と居心地がよいと思っているこの職場を、さらに環境が悪化したところで手放す気はないのだが。



「あんたも良く続くねぇ」

主が子供の頃から面倒をみていた執事の妻が、無言で芋の皮をむく彼女に話しかける。
おそらく普通に機能している屋敷ならば、女中頭とも呼べる彼女だろうが、あいにくここの女中は有里しかいない。

「いえ、別に、全くなんともないですから」

どこで怒りだすかは全くわからないけれど、一定時間叫ばせておけば済む程度の癇癪ならば、本当に有里にとってどうってことはない。
これが鞭打たれるなり、寝所の世話までしろ、となれば話は別だが。

「あたしも助かるけどねぇ、正直旦那と二人っきりってのもねぇ。ユリちゃんのおかげで庭も綺麗になったことだし」

あれほど大変だと危惧したここでの仕事内容だが、実のところはそれほどたいしたものではなかった。
それこそここには主以外の人間は三名しかおらず、彼女が世話をしなくてはいけないのは主たった一人だ。
その一人もいつ起きるのか、いつ寝るのかがわからない生活を続けており、基本的には書斎か寝室か食堂にしか存在しない。
不規則な食事の世話が一番面倒といえば面倒だが、彼の方も執事の妻にそれほど無理な要求をすることもなく、というよりもどちらかというと子供だましの料理の方を好む傾向にある彼は、簡単なものを給仕したところで文句一つ言うことはない。
皿の置き方が雑だの、食卓用金物の置き方が気に入らない、といったことで癇癪はおこすけれど。その他は、ただひたすら屋敷の掃除しかすることはないわけで、自然とそれはこの屋敷をみすぼらしく見せる原因となった庭へと目が向けられることとなる。
有里にとっては当然で、老夫婦にとってはとてもありがたいことに、庭は見る見るうちに整えられ、今では十分に客を呼べるだけの体裁を保っている。
だが、ここに客が来たことは、有里が知る限り一度としてない。
数日に一度、郵便物を配達に来る人間が、執事へと幾通かの封書を手渡すのが、唯一の人の出入りともいえる。

「そういえば、どうしてこうなったんです?あの人」

いつのまにか気安い口を聞く間柄となっている有里と彼女は、手は動かしながらも女同士の会話に花を咲かせる。同年代ではないけれど、こういう無責任な世間話ができる楽しさ、といったものを享受している有里は、せっせと、彼女のおしゃべりに付き合うことにしている。
彼女の方も、久し振りに現れ、裏表なく働く彼女を気に入っており、熱心に過去のことを穿り返しては聞かせてくれる。

「いやね、昔はそんなことなかったんだよ、昔は」
「想像できないし」
「割とほら、顔も整ってるだろ?坊ちゃん」
「はぁ、まぁ、そうっすかねぇ」

幼い頃から面倒をみてきていただけあって、この夫婦はそろって坊ちゃん、という呼び名をやめない。いや、気をつけているのについつい口をついてしまうらしく、主自身も僅かに眉根を寄せる程度で、やはりたしなめることはできないでいる。その分有里に八つ当たりがくるのだが、それは十二分に有里の耳を素通りしている。

「だから、女の人だってそりゃあ、色々出入りしたもんさ。まあ、昔の話だけどねぇ」
「はぁ」

どこに目があるのかわからないほど伸ばされた前髪に、無造作に後ろに一つでくくられた不気味な男からは想像できないほど華やかな話が飛び出してくる。
もっとも、本当に顔はいいのかもしれないが、それについては興味もないし知りたくもないと、有里は考えている。
主の顔が美形だろうが醜かろうが、彼女の生活にも給金にも関係がないからだ。

「だけどさ、よくある話だけど」
「まさか失恋したから閉じこもったっていう、腹を抱えて笑えるほど陳腐な話じゃあないでしょうね」
「いや、そのまさか、なんだけどさ」
「ばかじゃね?」

確かに、昔の有里ならば、この世界に連れてこられる前の有里ならば、そういった気持ちがわからないでもないだろう。
ましてここの主は働かなくても困らない立場だ、逃避することに精神的なためらいがなければ、それこそいつでも今の立場に逃げ込むことが可能だろう。
だが、有里は理不尽にもこの世界へと連れてこられ、ここでの生活を強いられた。
しかも、ようやく慣れた生活はある日突然取り上げられ、有里は再び彼女の生活する術を再構築していくしかない有様だ。
そんな程度で引きこもっていては、今頃はあのぼんくら陛下の側で、意に染まない生活を涙を流すだけで送らなければならなかっただろう。
だから、心底、本気で、真剣に思ったことを口にした。
それを偶然耳にした、その馬鹿な主が口を挟んだことは驚きだけど。

「おまえに何がわかる!!!」

口を滑らせた老婦人ではなく、あくまでも怒りの矛先は有里へと向かう。
それもこれも恐らく同年代の若い女性にこっぴどく振られたからだと分かれば、ばかばかしい。
急に子供だと思っていたものが、もっとたちの悪い思春期の子供に変化しただけだ。

「はあ、申し訳ありません」

それきりだまったまま、有里は食事の支度を続ける。
おろおろした婦人は、有里と主を交互に見ながらも、声をかけられないでいる。

「おまえなんか」
「首にします?行くところもないいたいけな少女を?何の後ろ盾もない人間が職にありつこうと思ったら、きっつい仕事か女の肉体労働しかないですけど、それでも後ろめたくありません?公娼になって娼館にでも立てってことです?それとも潔くこの寒空で凍死しろってことです?まあ、私の人生たいしたこともないですから、それはそれでいいですけど」

全く思っていないことを口にだしてすらすらと述べ、じっと主を見据える。
ただ気恥ずかしさに怒鳴り散らしただけの主は、その態度に気おされて押し黙る。

「もうすぐお食事ですので、お時間になりましたらおよびしますね、ご主人様」

最後の部分に力をこめ、視線で圧倒する。
生に執着しているわけではないけれど、さりとてそんな簡単にくれてやるほど、有里は人生をあきらめたわけではない。
色々あったけれども、今は今なりに、彼女は人生を楽しんでいるのだから。

4.2.2009
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