空知らぬ雨/第2話

 日常生活はまるで変わらない。
いつものように学校へ行って、帰る。
そこに皆川さんが加わることもあるし、ないこともある。真と一緒に道場で汗を流すことも、琥珀のお弁当がおいしいことも、何もかも私の生活には変化がない。
ただ、時折、いや、最近になって頻度高く、あの例の青年の姿を見かける以外は。
最初は見えなかったそれは、今ではそんなことも思い出せないほどしっくりとあたりに馴染んだ姿をみせ、当然どの人間もあれが不自然だとは言い出ださない。
だからこそ、不可解でややひっかかる現象を無理やり胸の奥に引っ込め、数秒間彼の視線に無防備にさらされている。
彼は、私を視線で追いかけている。
私はそれに答えてしまっている。
田舎の暗闇を思わせる瞳は、どこまでも深く、ふらふらとその甘い闇へと吸い込まれていきそうになる。
幾度となく、道路を隔てた彼の方へ足が向かいそうになるのを押さえ、私は何事もなかったかのように由貴や皆川さんの話に加わる。
味わったことのない圧迫感と、肌をぴりぴりと刺激する何か、は相変わらずで、それすらも私はどこかで心地いいと思ってしまっている。
そう、私は彼とたった数秒間でも視線をあわせることを望んでいる。
会えない日には、顔に出さないように落胆し、会えた日には小躍りする気持ちを押し込めている。
こんな気持ちは知らない。
由貴や皆川さんに対する感情とも違う。
琥珀に対する安心感とも違う。
足元から崩れていきそうなほど不安定で、だけれどもその気分にずっと浸っていたい。
この状態は危険だ。
その警鐘はとても小さくて、私はそれから簡単に耳をふさげてしまう。
あの人を視界に収めることができさえすればそれでいい。
琥珀の存在も、友人たちの存在も、私の中で徐々に小さくなっていってしまった。



「翠さん?」
「ん?」

朝食中にぼんやりとしていたらしい私は、琥珀の呼びかけで我に返った。
食器と私の間の机が悲惨なことになっていることに気がつき、慌てて布巾でそこらあたりをふき取る。

「ごめん、少し疲れているみたいだ」
「何かありました?」
「いや、別に」

思い当たる節なら、ある。
私の思考を読める琥珀ならば、恐らくとっくに感づいているだろう。
だが、それと今のこの私の状態を結びつけたくはなくて、私は口を開けないでいる。
家族以上に家族として認識している琥珀に後ろめたく、故に私の口はますます重くなっていく。

「僕、迎えに行きますね」
「それは」
「行きますから」

常ならばうっとうしい、と、一刀両断するはずの琥珀の提案を否定できない。
それだけ、私は琥珀に対してやましい、といった感情を抱いていることになる。
こんなにはっきりとしない自分、といったものが初めてで、まるで身動きができない。
理由ならばわかっている。
あの男、だ。
人間ならざるもの、すでに私はそう認識しているのだが、由貴と皆川さんが感じることができなかった例の青年は、最近は毎日私の下校時間に合わせたかのように、あの瀟洒な住宅の前にたたずんでいる。
猫を抱いたその姿は、どこか絵画を思わせる佇まいで、由貴と皆川さんは、目の保養をした、などと言いながら何も感じずにそこを通り過ぎていく。
私はといえば、あの目にとらわれないようにしながら、彼の隣を横切っている。
いや、それは自分に正直ではない告白だ。
私は、いつも彼の姿を確認したくて、体が重くなることを承知で、彼と視線をあわせてしまっている。
何を考えているのか良くわからない瞳。
その奥に吸い込まれそうになりながらも、わずか数秒の邂逅は、私にひどい倦怠感と、どこか浮ついた気持ちを与えてくれる。
私の変化に、最初に気がついたのは当然琥珀だ。
佐伯家を取り仕切っているのは琥珀であり、私の全てを把握しているのも琥珀である。
その変化がたとえ微妙であっても気がつかないはずはない。
繰り返し問われる、私自身に起こった異変について、のらりくらりとかわしながらも、琥珀は何かを感じ取っている風だ。

「絶対に、迎えに行きますから」
「……わかった」

少しだけ笑って、だけれども最近いつもさせてしまっている心配そうな顔に戻る。
私は、琥珀に悪いことをしている。
それがどういうことなのか、どういう気持ちから起因するものなのかをうまく言語化することができない。もどかしさだけが残る。
今日はあの青年の姿を見ることはできないだろう。
ほっとしながらも、残念に思っている自分がいる。
私は、私の気持ちが理解できない。

2.18/Miko Kanzaki
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