空知らぬ雨/第3話

「翠さん」

約束どおり忠犬のように私を待っていた琥珀は、相変わらずどこかのショップから提供されたであろうセンスの良い服を身に纏っている。
すでに琥珀が誰とのつながりを持っているかを知っている女生徒たちも、遠巻きにしながらも彼の姿をうかがっている。
確かに、琥珀の造作は整っている。
古風ではあるが、男らしさと線の細さが上手に溶け込んだ、やさしげな風情も魅力的ではある。
あくまでも原色的な美しさである、例の金髪とは対照的に、派手ではないけれども、印象に残る存在だ。いつもはへらへらとした雰囲気しか出さないせいなのか、容易に人だかりができてしまうものの、いつになく厳しい顔をした琥珀は、その美貌も相まって、独特の凄みを発散しているらしい。

「何かあったわけ?」

単刀直入に、いつもの琥珀ではない琥珀に由貴が尋ねる。
由貴も、私の異変に気がついている一人である。

「……そのわけを探りにきました」
「そう……」

心当たりがまったくない由貴にしてみれば、得たいの知れない人外とはいえ、いや、だからこそ琥珀に何かを期待しているようだ。

「二人とも、そんなに真剣な顔をされても」
「はぁ?翠ちゃん、あんた自分が今どんなだかわかってるわけ?」
「どんなって」

少しゆるくなってしまったブラウスの襟をつかまれる。

「体が資本、丈夫で元気、な、あなたがこんな状態になるって普通じゃないし」
「体だけがとりえだと言われているような気が」

きつい視線で睨み返され、それ以上茶化すことすらできない。

「真(まこと)の馬鹿も心配してる」
「……練習、参加していないからな、最近」
「それだけじゃないってわかってて言ってるの?」
「ごめん、由貴。だけど、私にも理由がわからない。季節的なものなのかもしれない」

心配そうにこちらを見つめる琥珀と、怒りを含んだ由貴。
その二人に両脇を挟まれるような形で下校する。

「二人には心配をかけてすまないと思っている。だけど」

徐々に「彼」の家へ近づく、無意味に口数が多くなった私の左手を琥珀が握り締める。
何か、を感じ取ったのか、例の家の前で、琥珀が見たこともないような表情でにらみ付ける。

「やめてもらえませんか」

不自然なほどぎこちない動きで、私は琥珀の視線の先を見つめる。
―――彼、が立っている。
ドキリとなった心臓が暴れ始める。
いつも私を襲う圧迫感と、どこか高揚した気分が同時に湧き上がってくる。

「あれ…、人間じゃなかったんだ」

忌々しそうに由貴がつぶやく。
最初に彼を見つけたのは由貴だ。
まったく気がついてはいなかったけれども、私の様子からどこかおかしい、と、かすかにひっかかっていたようだ。だからこそ、先手を打てなかった自分を悔しがっているらしい。
ニヤリ、と笑った彼が、右手を私の方へと差し出す。
まるで交通量のない狭い路地を挟んで、私と彼の間は物理的に離れている。
だけれども、私は、その差し出された手は、私にむけたものであり、私は、その手をとりたいのだと、わかっていた。
身体能力に劣る琥珀と由貴では、弱っているとはいえ私の動きを制することができるはずもなく、私は易々と彼の手をとる。
ああ、私ははやくこうしたかったのだと。
安堵とともに、彼の胸に抱かれる。
ひんやりとした体温と、どこまでも生気を感じさせない手の感触。
やはり、彼はこの世のものではない、ということをはっきりと実感してしまった。

「翠さん!」

琥珀の呼ぶ声が聞こえる。

「翠ちゃん」

由貴の怒った声が聞こえる。
だけれども、私には耳元でささやいた、「翠」という彼の声しか届かない。
あっけなく私は意識を手放して、あちらとこちらの境界を踏み越えてしまった。
もう戻れないかもしれないのに、私にはなんの恐怖心もなかった。
どこかもっと早く、こうしていたかったのだと、そんなことすら思うほどに。



 いつのまにか寝具の上に寝かされた私は、木目の美しい天井を視界にとらえ、今自分がどこでどういう状態なのかを把握した。
恐らくここは、外から見ていたあの住宅の中なのだろう。
外見通りに畳に何かの鳥が描かれた襖と、木目が整った柱に天井と、昔風の日本住宅が次々と目に飛び込んでくる。
動かせない体と、ようやく動かせる首を左右にふりながら、状況を把握していく。
庭には、いつも眺めていた松の木が見える。
だけど、そこから先、本来道路と反対側の住宅が見えるはずの空間は、濃い霧がかかっているせいなのか、何も見えないでいる。

「大丈夫か?」

ようやく人の気配がして、それが彼から発せられたものだとわかり、安堵する。
外が見えないことよりも、ここにただ一人で存在していることの方が不安だった私は、上半身を起こす。
ぐらりと視界が揺れ、熱のない体に抱きとめられる。

「ごめんなさい」
「いや」

ひんやりとした彼の手の感触に、自分の熱が徐々に吸い取られていく。

「もう少し寝ていなさい」

再び横たえられ、額にかかった前髪を彼が右手で払う。
額に口付けられたのだと、気がついた頃には私は再び意識を失っていた。



 幾度目かの目覚めと、数え切れないほどの浅い眠りを繰り返し、徐々に自分の体が弱っていくことを感じ取る。
うっすらと開けられた視界には、やはり年代を感じさせる木目がうつりこむ。
このまま小さくなって消え去るのかもしれない。だが、そのことになんら恐怖を感じない。
私は誰で、誰と暮らしていたのか。
そんなことすらも記憶が曖昧で、思い出そうとすれば再び眠りについてしまう。
私は誰かの名前を呼ぼうとしていた。

「……まだ寝ていなさい」

その声を聞いただけで、私は思い出そうとする努力を簡単に放棄する。
起き上がった上半身を彼の胸に預け、庭と、濃い霧に遮られた外界を眺める。
どうやって、私はここにきたのか。
それすらもわからなくて、私はまぶたを閉じる。
感じるのは体温のない肌。
私から移っていった熱で、私は私がまだ生きていることを感じられる。

「このまま、ずっと一緒に」

彼の声が聞こえる。 頭の中で他の誰かの声と重なって、だけれども瞬時にしてそれを考えられなくなる。
残るのは低く甘い彼の声だけ。
なんのためらいもなく浅い眠りに沈み込む。
彼の胸の中で。

2.24/Miko Kanzaki
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