正体不明の男を未成年の女が連れ込んだら大事になる、はずだが、生憎我が家には私以外誰も生息していない。
母方の祖母だか曾祖母だかの遺産だという古い民家を住処にしている私には、うるさくいわれるような隣人も幸い存在しない。
家族がいないとか、仲が悪いとかそういった類のものではなく、ただ単に転勤による引越しに付いていかなかっただけの話。当時は成年である姉もいたのだが、妊娠、駆け落ち、行方不明と3拍子そろった彼女は現在消息がしれない。
「ここだから」
鉄柵を押し、3-4段の階段を上ったところにある玄関へと進む。慣れた手つきでポケットから鍵を取り出し、扉を開ける。右手で扉を開き、繋いだほうの手を引っ張って招き入れる。
男はなぜだか先ほどから小刻みに震えている。それが寒さによるものなのか不安からくるものなのかはわからない。だけど一刻も早く暖まらないと早晩風邪を引いてしまうことは確実だろう。
「風呂入れるから待ってろ」
脱衣場に置いてあるバスタオルを取りに廊下へと足を踏み入れる。
繋いだその手を離そうとした瞬間。彼がいたたまれなくなるほど悲しそうな顔をした。
なぜだかわからないけれど、罪悪感が湧く。
「すぐ戻ってくるから」
小走りに目的のものを手に取り、ついでにお湯を張る。
慌てて戻ってみると、玄関先で途方に暮れた大男がこちらを縋るような目つきで見詰めている。
バサリと無造作にタオルをその頭に投げかけ、やや乱暴に髪の水分を吸収する。
「ほら、風邪引くからちゃんとしろ」
言われてはじめて気がついた、といった風情でおずおずとタオルに手を伸ばし、濡れきってしまった身体を拭う。
「ともかくあがれ」
再び手をつないで風呂場へと連行する。
湯船に半分ぐらいしかたまっていないが、大男ならこれぐらいでも十分だろうと判断し、風呂場へ放り込む。ぐずぐずされるとこちらも風邪を引いてしまう。
「ちゃんと暖まれ、着替えは置いておく」
そういい残して風呂場を立ち去る。
私は廊下を突き進んで私の部屋へ着替えを取りに行く。
濡れた衣類を持ってきた洗濯籠に突っ込んで、適当に乾いた洋服を身にまとう。ついでに、彼が着られそうなものを物色するが、生憎男といえば父親しかいなかった我が家にはそんなものは存在しない。仕方がないので、フリーサイズの私の短パンとTシャツを取り出す。こんなものでもないよりはましだろう。
着替えを手に風呂場へ戻る。
曇りガラスからはわからないが、時々お湯の跳ねる音がする、きちんとと入ってくれているのだろう。
声をかけようとして、彼の名前すら知らない自分に驚く。
名前もしらない男を自分一人しかいない家で入浴させるなんて無用心にもほどがある。
だけど、なぜだかわからないけれど、彼は無害である。そう言い切れる気がした。根拠は全くもってないが。
案の定、風呂上りに私の服を身に着けた彼は、笑いをこらえるのが大変なほど滑稽だった。パツパツのシャツに明らかに丈の足りないズボン。ウエストがゴムだったからなんとか入ったであろ腰のあたりが何気に悲しい。
「一応お茶なんぞ入れたから、それでも飲んで待っててくれる?ごはんぐらいだすから」
お風呂に入れただけじゃなく、食料まで与えようというのか。普段なら全く持って思い浮かばない提案がスラスラ出てくる。
彼は無言で頷いて、静かに畳の上に座り込む。
それを安心したように見届けて、私もお風呂へ入りに行く。
風呂上り、彼がいるはずの和室を覗くと、行きに見かけたままの格好で座っている彼がいた。
「足崩したら?」
見るからに窮屈そうに足を折り曲げ、きちんと正座をしている大男というのはそれだけで何か物悲しい。
私の言葉がわかったのか、わからないのか、相変わらずそのままの姿勢でこちらに視線を向ける。
「あなたは?」
久しぶりに聞いたその声は、ごめんなさいと繰り返しつぶやいていた声と当たり前だが同質で、ひどく低い。
彼が尋ねたのは名前なのだろうと判断して答える。
「佐伯翠(さえきみどり)」
「それは名前ですか?」
「そうだが、あんたの方は?」
彼は拳を握って太ももの上に乗せ、何かを考え込んでいる。
「いや、まあ、言いたくないならそれでいいけど」
釈然とはしないものの、なにか事情があるのかもしれない。あまり詮索しないでおこう。
「いえ、そういうわけじゃないのです」
彼は私が一人で納得したように立ち上がろうとしたのを制して、口を開く。
「名前が、ないのです。今の僕には」
日本語なんだろうけど、理解するのに激しく時間がかかった。
やっかいなものを拾ってしまったかもしれない。落し物なんて拾うんじゃなかった。
きっとあれだ、有名な。
「記憶喪失?だったら病院か警察に行かないと」
素人では手に負えないし、手を出す気もない。
ほんの気まぐれの偽善行為なんだから、風呂と食事だけで勘弁して欲しい。
「違います。ないのです。名前が」
先ほどより少し強い口調で主張を繰り返す。
「あーはいはい、ないのね。だから、それを記憶喪失って言うんでしょ?」
手をひらひらさせて適当にあしらう。だいたい酔っ払いほど酔ってないっていうように、おかしなやつほどおかしくないと言い張るものだ。
「記憶はあります。失礼な。それこそ何百年前の出来事だって昨日のように思い出せますよ、僕は」
記憶喪失と言われてよっぽどくやしいのか、大げさなことを言い出した。
「そんなこと言ってると病院行って検査されるぞ」
「いえ、だから、僕は人間と違って、記憶力はいいほうなんです」
本格的におかしなことを言い出した大男に対して、私は途方に暮れてしまう。やっぱりこんなやつ連れてくるんじゃなかった。激しく後悔したがもう遅い、彼はもはや論点のずれた方向性で熱く語り始めてしまった。
100年前はなんと言う名で、どうだった、とか500年ほど前は別の名前で、とか。こいつ現実と妄想が区別がつかなくなってるんじゃあ。そんな心配をよそに、彼は語る、彼の生きてきた時代ってやつを。
「昔の名前があるのならばそれを名乗ればいいではないか」
言っていることを信じたわけではないが、彼の勢いに飲み込まれ疲れてしまった私は、ついそんな事を口にしてしまう。
「はあ、まあそうなのですが…。でも…やっぱり今の名前は…」
はっきりと原因を語らない彼と昔の名前でよいという私とは、お互い譲らないとばかりに平行線を辿る。ここは一つ打開策という名の諦めの境地というやつで、彼の言っていることを反芻することにする。
「何百年も生きてきてそのたびに名前が変わって、今はない、と」
「その通り」
「それじゃあ、妖怪じゃん」
畳に向かってこっそり呟いたはずの言葉をしっかり拾われていたらしい。
急に膝を打ち、やっとわかったのか、といった安堵の表情を浮かべた。
「やっと理解してくれたんですね」
すっかり納得した大男と、げんなりした私。客観的に見たら面白い取り合わせに面白いシチュエーションだろう。だが対面している本人はやけ気味で笑えない。半ば自棄になってしまう。
「だったら、証拠をみせろ」
ナニを望んでそんなことを口走ったかわからないけど、朦朧とした頭はそんな言葉を吐き出していた。
熱心に自分が何たるかを語っていた男は、瞳を輝かせて私の両手を掬い取って握り締める。
「そうだ、そうすればよかったんですよ」
今日のような天気の日にはまるっきり似合わないさわやかな笑顔を浮かべてにっこりと微笑む。
こいつ、よく見ると美形かもしれない。
こんな場でそんなことを考えてしまう自分もどうかと思うが、半分ぐらい意識を飛ばしていないとやってられない。
「よく見ててくださいよ」
爽やかな笑顔をした怪しげな男は、その笑顔とともに一瞬にして消えていなくなってしまった。私の目の前で。