雨宿り/第1話

 その日は鬱陶しい梅雨の真っ最中で、機嫌もすこぶるつきに悪かった。きっと星占いなら最低最悪の一日に違いない。占いなんて信じないけれど。

「あほんだら!」

罵声とともに目の前に転がっている空き缶を思いっきり蹴飛ばす。軽いアルミ缶は蹴った感触はあまりないが、飛行距離が見込めるためストレス解消にはもってこい、なはずだった。

「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」

小さな震えたような声が繰り返し聞こえてくる。
幻聴じゃない。
コントロールなんて考えもせずに蹴った空き缶は、まっすぐと今時めずらしい黒色のゴミ袋へと吸い込まれていた。 確か今の時代すでに違反であったと記憶している。
思考回路を全く別方向へもって行き、現実逃避を図ろうとした頭を現実が引き戻す。

「いたいよう」

摩訶不思議なことに大きな黒色のゴミ袋から声が聞こえてしまった。はっきりときっぱりとこの耳に受け取った声音はしっとりとして低く、困ったことに現実味を帯びていた。
本能はその場から離れろと指令を発しているにも関わらず、好奇心がそれを遮る。君子危うきに近寄らず、という言葉は思い浮かぶものの、結局それには勝てもせずゴミ袋を凝視してしまう。
ぼんやりと白いものが浮かびあがり、こちらの視界に飛び込んでくる。
それが人の顔なのだと認識する前に、私は傘を放り投げその場にしゃがみこんでいた。



 俗に言う腰が抜けたという状態だ。
大きなゴミ袋が、単なる若い男なのだと認識するころには、朝から降り続けていた激しい雨で全身ずぶぬれになっていた。

「おまえ……だれだ?」

やっとの思いで搾り出した質問に、正体不明の男は間抜け声で答える。

「さぁ?…誰なのでしょう」

これが常の私ならば秒速で殴り倒しているのだろうけど、ただならぬ男の雰囲気と悪天候による視界不良などの舞台装置のせいか、立ち上がることもできずにお互いを見詰め合う形となってしまった。つまるところ男の気に飲み込まれてしまったのだ。
ただいたずらに時間が過ぎていく。梅雨時とはいえ、身体が濡れたら寒い。このままでは風邪を引くかもしれない、というもっともらしい現実的な不安から、ようやく目の前の出来事に対処しようとする気力が湧いてきた。

「ひょっとして空き缶あたったのか?」

冷静になれば、たぶん相手はただの人である。電柱柱の影に座り込んでいる黒尽くめの怪しさ200%の男であろうとも。自分がしでかした不始末は自分で清算せねばなるまい。

「はい、いえ、ちょっと?」

はっきりしない回答だが、どうやらあたってしまったらしい。アルミ缶でよもやケガをするわけはないが。

「すまなかった。そうだ、傘でも貸してやろうか?」

とっくにそんな状態ではないだろうが、ないよりはましだろう。

「かさ……」

視界が良くないため相手の表情はイマイチわからないが、困惑しているのだけは伝わってくる。

「それとも着替えがいるか?」
「きがえ…」

鸚鵡返しのようにこちらの言葉を繰り返すだけの相手を不審には思うが、ひょっとしたら雨に打たれつづけたせいで、衰弱しているのではと気が付いた。
健康な大人でもこのままの状態はやはり良くない。
仕方がない、これも何かの縁だからと、仏心を出したことを死ぬほど後悔することになる。

「とりあえず、私の家へ来るか?雨宿りぐらいはさせてやる」

びしょ濡れの制服をどうこうすることをもはや諦めた私は、その場に立ち上がり右手を差し伸べる。
彼はおどおどしながらこちらの手を握り返す。
弱っていたわけではなさそうな彼は、思ったよりも力強い動作で立ち上がる。

ユラリ―――――。

黒い物体、見知らぬ若者が目の前に立ちはだかる。
頭ひとつ分以上でかい図体は、想像よりも立派で先ほど言った言葉を後悔しかかる。
よく見ると、若者はいまどき珍しく着物なんぞを着込んでいた。もはや雨に濡れて元の色がわからないが、きっと深い緑色だったのだろう。まるで電信柱やコンクリートの道路、今の時代あたりまえの風景の方がここにあってはいけないもののように思えてくる。彼の存在そのものが異質なのか、それに合わせられない周りの方が異質なのか。再び、彼の雰囲気に飲み込まれてしまう。前髪を伝わって滴り落ちてくる雨粒を振り払い、陥った考えを振り払う。

「行くぞ」

繋いだままの手は、まだまだ降り続く雨の中離されることはなく、家にたどり着くまでなぜだか私のほうも手放せないでいた。

きっと、運命だったのだと、後で思えるほど私は大人ではなく、やっぱり死ぬほど後悔するはめとなる。
これが私が人外魔境へと片足どころか両足ずっぽりと踏み込んでしまった原因となるなど、このときの私にはわかるはずもなかった。

03.11.2005
03.20.2007修正
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