02
どれほど時間がたったのかはわからないまま、ふと、コーヒーの香りで吉井の意識が通常のモードに切り替わる。コトリと音を立てて置かれたそれは、暖かい湯気を放っており、当然それを入れた人間が近くにいるはずである。カップから目を離し、机の前の人間に視線を上げる。
「誰だ?」
「学生証の忘れ物をとりに来て、ついでにこの部屋を片付けてあげた修士一年の澤田由香子」
「ああ、悪い。忘れていた」
「ヒドすぎ」
「興味のないものに記憶が割けない性質なんでね」
「そういう屈折したこと言う?でーも!この部屋をみたらいいかげん覚えたくもなるんじゃない?」
大袈裟に両腕を広げで、自らが行なった仕事を見せつける。
番号順に揃った雑誌類と、どういう基準で並べていったのかは不明だが、それでも吉井にとっては適応範囲内に並べられた学術誌、いつのまにか積もっていた埃すらも綺麗に拭き清められ、あれほどごちゃごちゃした印象を与えていた部屋は、短時間で見違える間にその印象を変えていた。
ただ、ものが多すぎるのは仕方がないことで、はみ出してしまった物品が先ほどまで確かに彼の部屋であったことを主張していた。
「素直にお礼を言った方がいいな」
「別に、恩返しだし」
今時の学生から恩返し、などという古めかしい言葉が出てくるのがおかしくて、喉の奥で笑いを噛み殺す。
「ということで、本当に帰る。お腹すいたし」
「ああ」
「じゃあ先生、ありがとうございました」
「こちらこそありがとうございました」
たぶん二度と出会わないであろう彼女の後姿を見送りながら、今までの吉井ならありえない行動に出る。
「メシ、食ってくか?」
振り向かずにそのままの姿勢で由香子が立ち止まる。
「おごり?」
「ああ、仕方がないからおごってやる。でももう少し待ってろよ?後少しで仕事が片付くから」
「それぐらいタダメシに比べたらどうってことないし」
再び吉井の居室に戻った彼女は、大人しく来客用の椅子に腰掛ける。
静かに仕事に取り掛かった吉井を待ったまま、結局彼女は後少しで2時間ほども待たされるはめに陥った。
「ありえないし」
「・・・・・・悪かったといっているだろうが」
「その態度がちっとも全然まったく悪がっているようには見えないのは、その性格のせい?」
夜の9時過ぎ、おまけに田舎ゆえの店の少なさから、結局学生が良く利用するファミリーレストランへと落ち着く。チクチクと嫌味をいいながらも、気持ちが良いぐらいの食べっぷりで皿の上の料理を平らげていく彼女に、吉井は自分の年齢を実感させられ、思わず煙草を取り出した。しかし、禁煙席に通されたことを思い出し、再び箱を仕舞いこむ。
「たばこ吸うの?」
「まあ、多少は」
「その割にはあの部屋は煙草臭くないような」
「自分の部屋で吸う気にはなれないね」
「ああ、我侭な喫煙者?他人の煙草の煙は大嫌いっていう」
「普通誰だって嫌いだろうが、人の煙なんぞ」
「いやそれって究極のわがままだし。あ、ひょっとして車も禁煙?」
「あたりまえだろう、家へ帰ったら煙草なぞ一本も吸わん」
「わっがままーー」
口の中でエビフライを咀嚼しながらも、呆れた様子で吉井の主張を切り返す。
「さっさと食べろよ」
「女の子にそんなこと言う人は絶対もてないし」
「おまえらにもてたところで何の得があるっていうんだ。うっとうしい」
「へーへー、どうせうっとうしくも小賢しい小娘でございますよ」
他の人間が口にすれば木で鼻をくくったような受け答えに、多少の嫌悪感を覚えるものだろうけれども、彼女の持っている柔らかいのか硬いのか良くわからない雰囲気でそれらが相殺されている。大人ぶってもいなく、子どものふりもしない彼女の話し方は吉井に今までにない安心感を与えていた。
「ごちそうさまでした」
きちんと小さな手を合わせ終了の合図をする。自分がそんなことをしたのは小学校以来なかったことを思い出す。吉井にとって食事とはただ倒れないために必要な栄養素を摂取するだけのことでしかなく、その自分がわざわざこの学生を食事の場に連れ出したことが、今さらになっても信じられないでいた。
「ごちそうさまでした」
再びお礼を口にした彼女は、深深と頭を下げ丁寧にお礼を繰り返す。
「いや、ごちそうっていってもただのファミレスだし」
「いえいえーー、学生にはそれでもありがたいですから」
「そっか、そんなものか」
「そういうことです、と、食い逃げみたいであれだけど、これで帰ります」
「送ってくが?一応おまえも生物学上女みたいだし」
「どっからどうみても女だけど、家、近いんですよ。ここからだと車の方が面倒。ここって結構一歩通行とか多いし」
「ああ、そうか。だったら気をつけて帰れ」
「はーい、ありがとうございました。それともう部屋汚さない方がいいですよ?」
「気をつける」
「じゃあ」
躊躇いもなく去っていく後姿に、吉井は一抹の寂しさを覚え、そう思ってしまった自分にショックを受ける。
―――そんなはずはない。
そう一言呟いて、彼は自分の車へと乗り込んで行った。