01
大学院工学研究科に所属する吉井直樹に関する評判は、概して平凡なものだった。授業は可もなく不可もなく、大量の落第者も出さなければ最高評価である優の評価を出す事も少ない。また、准教授職についた年齢こそ若かったものの、そのニュースですら世界的に著名な教授の跡を引き継いだ学者が彼と同年齢であったため、さほど話題に上ることすらなかった。学生達の間でも彼に関する噂が立つ事はほどんどなく、職員の間では若年とは言え、積極的に学生と意思疎通を図る素振りも見せていない。だからといってまるで無関心、というほど冷徹なものではなく、コミュニケーションをとることがやや苦手なのであろうと判断されるに留まっている。
「まじ?」
自分の名前が映し出された電子掲示板に向かって、大学院修士一年に所属する澤田由香子は絶句した。そもそもこの掲示板は、代講や休講の知らせ、学生課や会計課からの連絡事項が主に掲示されているものだが、時期によっては学生の個人名が呼び出した部署とともに掲示されることも珍しくはない。学費がらみであったり、単位がらみであったり、そのどちらにしても前期後期の終了間際か開始直後に起こることが多く、このように夏休み前に名指しで呼び出しを受ける人間はほとんどいない。
「あらら?なにやったの?あんた」
たまたま居合わせた同級生が口笛を吹くような仕草でからかいを入れる。
「知らない、っていうかこの人知らないんだけど」
「ご愁傷様」
手を振りながら去っていった同級生を尻目に、由香子はいまだに動けないでいた。
もう一度だけ、と、再び自分の名前を確認し、さらには呼び出した相手を確認する。
「工学部?化学?吉井?誰それ?」
口の中で何度呟こうともその文字は変わるはずもなく、彼女は覚悟を決めて、掲示板の前から離れていった。
こうして文学部言語学コースに所属する澤田由香子は、縁も縁もない理系の研究室へと足を運ぶ事となった。
開け放たれたままのドアを、それでもノックした方が良いのか迷いながら覗き込むと、目指す相手はコーヒーカップを机の上に置きながら書類というよりも紙切れの山に埋もれていた。
「すみません」
あまりにも没頭している姿に声を掛けるのをためらったものの、このまま帰るわけにもいかず、渋々小さく声をかける。
そんなもので彼のほうの集中力がどぎれるはずもなく、ただ二人の間にはカリカリと物を書く音だけが響く。すっと息を吸い、大声で話し掛ける。
「すーみーまーせーーーん」
ぎくりと肩を震わせ、まるでスローモーションのように書類の山が雪崩を起こす。さらにそれを喰いとめようと咄嗟に立ち上がった准教授は、マヌケにも足をデスクのどこかでぶつけた後蹲ってしまった。
―――この惨状は見なかったことにした方が良いのだろうか。
咄嗟にそんな判断がよぎったものの、おとなしく書類を拾い上げる。日本語と英語が混じったその紙切れは、おそらく論文や教科書に関することに違いない。だが、たとえ英文科に所属しているとはいえ、由香子にとっては宇宙語にも似たそれらを解読しようとする気持ちすらカケラも湧いてこない。
「・・・・・・わるかったな」
「いえ、突然声を掛けたこちらも悪いですし」
「で、君は誰?」
乱暴に片付けられた書類の山は、どう考えても再び雪崩を起こしてしまいそうで、由香子としても一刻も早くこの場から立ち去りたい気持ちでいっぱいだ。ただでさえ他学部の、おまけに彼女を小中高校と苦しめ続けた化学と係わり合いがある場所など縁起でもない、というのが本音のところだ。
「あの、掲示板に呼び出しがあがっていたみたいですが」
「呼び出し?」
「はい」
腑に落ちない、と言う顔をして眼鏡を直しながら考え込んだ吉井准教授は、やがていかにも思い出した、という表情をして、デスクの引出しを豪快に開けた。
大きな音を立てて書類の山が崩れ落ちたのはほぼそれと同時の出来事で、今度は由香子も吉井もなすがままにその惨状を凝視してしまった。
再び書類集めに取り掛かった由香子に、吉井は申し訳ない、と呟きながら書類を拾い上げる。再び積み上げられたそれらは、先ほどの形状よりややまし、少しぐらいの振動では揺らがない程度の形に作り上げられた。
「申し訳ない、別にわざわざ呼び出すほどの事でもなかったのだけれど」
「はぁ」
それでも、乱雑に組み上げられた書類に視線を馳せ、どちらかというと神経質な由香子は少しだけイライラを募らせる。
「はいこれ」
准教授に渡されたものは、澤田由香子と印字された、まごうことなき彼女の学生証だった。
「・・・・・・これ?」
「はぁ、授業に入ったら学生に渡されまして」
「いつのまに?と言いますか、これだったら学生課に渡しておいてくだされば」
いつ落としたのかも忘れてしまった学生証をまじまじと見つめながら、彼女は感謝よりも先に素直に思ったことを口にしていた。
そう、落し物ならば学生課に渡してもらえば良かったのだ。職員も一日に一度はあそこへ行く用事もあるだろうし、なにより、名指しの掲示を要請するにあたって学生課に頼んでいるはずなのだ。どう考えても割に合わない事をした准教授をまじまじと見つめる。
「いえ、こういうものは直接渡したほうがいいかと思って」
「はぁ・・・・・・、いえ、ありがとう、ございます」
縁のない、これからも縁のないはずである工学部の職員に呼び出され、遠くは離れたキャンパスにやってきた結果が落し物の引渡しであったことに、少なからず肩透かしを食らったような気分を味わった彼女は、無味乾燥なお礼を口に乗せていた。
「どういたしまして」
そんなことに気がつきもしない准教授は、これで話は終わりとばかりに先ほどまで一心不乱に仕事を片付けていた場所へと戻っていった。
「あの。すみません、なんかこんな事を言っては失礼だとは思うのですが」
「はい?」
用は済んでいるはずなのに一向に立ち去る気配をみせない彼女に対し、僅かに訝しそうな顔をして彼が答える。
「秘書とかいないんですか?」
「すみませんね、、まだそんなに予算が出てなくて」
「っていうか、自腹、なんですか?」
ぞんざいになってしまった言葉遣いに気がつき、途中から修正を入れる。だが、当の准教授はそんなことは気にもとめていないようだ。
「自腹ですよ。昔々の研究室や今でも公務員として雇っているところもあるみたいですけどね」
「そんなもん、なんですか」
「そんなもん、なんですよ。君も大学院にいるのなら多少は知っているでしょう?予算の厳しさぐらい」
「いやー、といっても万年予算がない文系と違って、工学部はお金が入る当てがありますからね」
「まあ、ないわけじゃないですけど、人一人雇うのにどれほどお金がかかるかわかりませんか?」
「まあ、大学生のお小遣い程度じゃダメだってことぐらいはわかりますけど」
「バイトにしてもパートにしてもそんなお金を出せるほどの余裕はまだないんですよ、うちの研究室には」
「ボスが甲斐性無し、とか?」
徐々にお互いの口調がフランクなものへと変化している事にも構わず、二人は雑談を続けていく。
「悪かったね、甲斐性なしで」
「へ?って准教授、ですよね」
「教授扱い准教授ってやつだ、知らないかもしれんが」
「そんなものあるんですか?へーーー、おもしろい」
「まあ、若手を引き上げてこき使おうって魂胆だ。もっとも、お陰で好き勝手やらせてもらっているが」
「好き勝手、ねぇ」
苦手分野の苦手な人間、という先入観からいつのまにか解き放たれた彼女は、部屋を無遠慮に眺め回す。
よくわからない英単語が書かれた雑誌がぎっしり詰まった本棚に、分厚い教科書めいた本の数々が片方の壁を埋め尽くしており、うんざりした彼女が反対側の壁を見渡すと、本棚に入りきらなかった雑誌類がそれでも種類別にうずたかく積み上げられていた。
「助手は?助手。こういうのこそ助手がなんとかするもんじゃないの?」
「選考中だ、それにしてもこういう雑用を彼にさせるつもりはない」
「ああ、男なんだ」
「・・・・・・」
まだ部外者に明かすべきではないことをうっかり口を滑らせたらしい吉井は、転がったままのペンをとりあげ、仕事に取り掛かる素振りをする。
「・・・・・・まだ何か用か?」
「手伝おうか?」
「は?」
「いや、仏心っていうか情っていうか、まあ拾ってもらった恩もあることだし」
「そんなものは別に思わなくていい」
「んーー、なんか放っておいたら永遠にこの部屋ってこのままっぽくない?」
「そんなことは、たぶん、ない。と、思う」
「いやーー、一人っきりの研究室なわけでしょ?学生にやらせればいいんだろうけど」
「私事に研究生や学生を使用する気はない」
「その点私なら部外者だし、まあ、鶴ほどじゃないけど恩返しってことで」
「・・・・・・」
「それに、結構このカオスっぷりにストレス感じてるでしょ?」
ニヤリと笑った由香子に、吉井が降参のポーズをとる。
「ということで、雑誌の整理からはじめればいい?」
「ああ、なくすなよ」
「っていうか、それが地なわけね。まあ、猫被る必要もないし」
ケラケラと笑いながら堆積された層を丁寧に崩しては再び積み上げていく。細細と動き回る彼女を数秒目で追いながら、今日やるべき仕事の山を思い出し、ようやく吉井准教授は仕事へと復帰した。