北畠顕家 きたばたけあきいえ <文保2〜暦応元=延元3>(1318〜1338)
北畠顕家画像(部分)
池上秀圃 筆
(霊山神社 蔵)
略歴については、北畠顕家とは?にありますので、ここでは省略させていただきます。
北畠顕家花押


 さて、このホームページの主役である顕家様でございます。

 顕家が小説などで麒麟児とか俊英と表現されるのは、やはり、昇進の早さからでしょう。
 顕家は、元弘元年(1331)正月13日にわずか14歳にして、参議に昇任しています。参議は大臣、大・中納言に次ぐ重職だそうですので、この年で任命されるのは、珍しいことでしょう。
 現に中原師守の日記「師守記」には“幼年人、参議に任ずる例”として康元2年(1257)11月の四条隆顕(15歳)と、この顕家(14歳)の2例が挙げられているそうです。
 つまり当時、顕家は史上最年少で参議に任じられたってことになります。
 まあ、この年の5月に元弘の変が起きていますので、 “その時” に向けて後醍醐天皇が、倒幕活動がしやすいように人事を行っていたことも考えられますが(政治的配慮ってこと?)、何といっても史上最年少の参議、つまり前例の無い人事ですので、やはり顕家様の実力だと思うんですよね。

 さて、14歳で参議に任じられたことは、前例が無かったことが「師守記」によって明らかなのですが、その前の13歳で左中弁になったことも前例には無かった人事らしいんですよね。
 「日本歴史大辞典」(河出書房新社)には、 “元徳二年(1330)13歳で左中弁となる新例をひらき、翌年参議で左近衛中将を兼ね、空前の昇進を示した。” とあるんです。

 え? 13歳で左中弁になったのも、前例の無い人事?
 すごい!すごすぎる!(日本歴史大辞典には、この記述に関する出典は書かれていないし、私が持っている他の資料にも記述が無いので、イマイチ自信を持って、言い切れないのですが・・・)
 最速の昇進、そして奥州統治から第一次長征の成功・・・同じ時代を生きた人々が、どのように顕家を評していたか、是非、生の声を聞きたいものです(笑)

 あと、顕家を美少年とする根拠ですが、顕家が陵王を舞った後醍醐天皇の北山行幸を記録した「舞御覧記」には“形もいたいけして けなりげに見え給いに”と書いてあるそうですので、ここからきているのね!と思ってはみたものの、いたいけ=幼くてかわいらしい、けなりげ=けなげに同じ。かいがいしい。勇ましい。(小学館の古語辞典参照。大辞林では「けなりげ」=態度がしっかりしているさま。頼もしいさま。)と解釈すると、特に美少年でもないような・・・
 やはり、“悲劇のヒーローは美しくなくっちゃ!”という、後世の人々が物語を語る都合上、作り上げたものなんでしょうかねー。
 ちなみに「太平記の群像」(角川書店)には、“「増鏡」における顕家の陵王の舞の記録から、舞の技だけでなく容姿も優れていたような印象を受けるので、美少年とする伝承はここから生まれたのであろう”ってな感じのことが書いてあり、私もそういうふうに考えています。 

 この辺りについては、「徒然なる独り言 15 顕家様は美少年!?」に詳しく書きましたので、興味のある方はそちらをご覧下さい。

資料:「太平記の群像」(角川書店)、「図説 太平記の時代」(河出書房新社)、「日本歴史大辞典」(河出書房新社)ほか

平成13年(2001)7.10

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