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北畠顕家とは?


北畠顕家公像(阿部野神社)
 文保ニ年三月二日(1318年4月3日→参考)北畠親房の嫡男として生まれた。
 元徳ニ年(1330年)十月に13歳で左中弁、その3ヵ月後の元徳三年=元弘元年(1331年)正月には14歳で参議に任じられるという異例の昇進を遂げた。
 元徳三年=元弘元年(1331年)三月、後醍醐天皇の北山行幸に供奉し、陵王の舞(荒序)を披露したという。
 正慶二年=元弘三年(1333年)、鎌倉幕府が滅んだ後、八月に従三位、陸奥守となり、十月 父 親房とともに義良親王を奉じて陸奥国府・多賀城へ赴いた。そして多賀城を拠点に、東北経営に専念した。
 建武二年(1335年)十二月、新政府(後醍醐天皇)に背いた足利尊氏を討伐するために西上し、楠木正成、新田義貞らと共に尊氏を九州へ敗走させる。翌年多賀城に戻るが、陸奥における北朝(足利)側の攻撃が激しくなったため、建武四年=延元ニ年(1337年)正月には伊達郡霊山に移った。
 同年八月、足利軍を討つために再び西上。暦応元年=延元三年五月二十二日(1338年6月10日→参考)、和泉石津合戦において敗死。21歳。
 石津合戦直前の五月十五日付で、後醍醐天皇の政治姿勢を厳しく批判する痛烈な諫奏を呈上している。
(参考資料:「鎌倉・室町人名事典」(新人物往来社)
「図説 太平記の時代」(河出書房新社)

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