北畠顕家書状(結城古文書写)

勅書綸旨及貴礼、跪拝見候了、臨幸吉野事、天下大慶、社稷安全基、此事候、須馳参候之処、
当国擾乱之間、令対治彼余賊、可企参洛候、去比新田右衛門督申候之間、先而到用意候了、
而于今延引、失本意候、此間親王御座霊山候、凶徒囲城候之間、近日可遂合戦候也、
下国之後、日夜廻籌策外、無他候、心労可有賢察、恐欝蒙候、且綸旨到来後、諸人成勇候、
毎事期上洛之時候、以此旨、可令披露給候也、

正月廿五日       顕家(花押)

人々御中

<解説>
建武親政の奥州経営を担うべく元弘3年(1333)陸奥守として奥州に下向した北畠顕家は、建武2年(1335)11月鎮守府将軍を兼ね、12月伊達行朝ら奥羽の軍を率いて西上し、足利尊氏を九州に追ったのち、建武3年5月多賀城に帰還した。しかし、翌4年、北党に攻められ、義良親王を奉じて霊山城に移った。この文書は、霊山に移った直後の顕家が、後醍醐天皇の勅書にこたえて、奥羽の情勢を報告した書状。

出典:「霊山町史」(霊山町)

この書状は、こちらの年表の3行目に書いてある→延元2年(1337)1月25日の奉答書です。 奉答書画像は→
内容としては、上洛して尊氏を討つようにとの勅書及び綸旨に対して、
「霊山城が敵に囲まれ、奥州が安定していないため、すぐには上洛できない。目下、脇屋義助(新田義貞の弟)とも通謀してその準備中である」
といった内容が書かれていますが、これの解釈というか、行間の読み取り方は様々です。

顕家は勅書を拝して感激され、又結城宗広以下の人々も勇躍して、聖旨を奉戴せられたことと思ふ。 『北畠氏の研究』(大西源一)
「心労賢察あるべく候」と述べており、陸奥の情勢が困難を極め、顕家が苦闘している様子が知られる。 『伊勢 北畠一族』(加地宏江)
顕家は敵に根城の霊山を囲まれるほどの苦境にありながら、いそぎ上洛すべしという命令には抗えず、ついに進発したのである。 『悪党の世紀』(新井孝重)
京都奪還の悲願を込めたこの要請を顕家は断り難く、やむなく八月十一日霊山をたち、再度上洛の途についた。 『南北朝の動乱』(伊藤喜良)

管理人は、顕家様が、勅書及び綸旨を受け取って感激したとは思えないのです。
顕家様がこの時点でもまだ、後醍醐天皇に心酔していれば、「自分が頼りにされている」と言うことを、素直に喜べたかもしれません。
しかし、顕家様は、この奉答書を書いた約1年半後に、結果的に遺書となった、後醍醐天皇の親政を批判した上奏文を書いています。その内容を考えると、どうしても受け取って、喜んだとは思えないのです。
ですので、この奉答書は、形式的には「上洛するよう協議中です」、「綸旨を受け取って皆勇気付けられました」と前向きな表現をとっていてはいるものの、本音としては「自分の事で精一杯なので、そちらはそちらでどうにかして欲しい」だったのではないでしょうか。


『図説 太平記の時代』(佐藤和彦 編 河出書房新社)には
“石塔方(北朝側)の軍勢は奥羽各地で兵をあげ、霊山城の山麓までも攻めよせていたし、北畠顕家としても春日顕国・多田貞綱らの指揮する北関東戦線までも支援しながら、後醍醐天皇から再度の上洛をしきりに求められていた。”


『悪党の世紀』(新井孝重)には、
“顕家が「上道」したあとの陸奥は敵の手に落ちて封鎖され、霊山にいたる南党の城郭は一所も残さず討ち落とされていたのである。顕家軍にはもはや前進の外には一切の行動の選択はありえなかった”


と書かれており、後世の人間には実際のところは解らないにしても、顕家様がかなり追い詰められた状況にあった事は想像に難くありません。

このような奥州の状況を考えると、とても上洛できるとは思えないのですが、顕家様は自分の信条として南朝が政権を取るべきだと思っていたからなのか、立場上断れなかったのかは分かりませんが、とにかく綸旨を無視することができなかったのだろうと思います。
(これの答えに繋がるかもしれない事を「徒然なる独り言 16」に書いています。)


(まあ、“足利尊氏が最も恐れた”かもしれない顕家様ですので、もし、南朝が滅んだ場合、北朝側は顕家様をただでは済まさなかった、つまり顕家様は殺される可能性が高いですので、命を繋ぐためにも南朝の存続は必要だったかもしれませんが・・・
ちなみに管理人は、顕家様は地方分権は提唱していても、奥州を独立国家にしたいとは思っていなかったと思っています。)


結局、顕家様は7ヵ月後の延元2年(1337)8月11日に霊山を出発し、翌年5月22日に石津で最期を迎えることとなりました。

平成20年(2008)10.5