「なぜ、顕家様は後醍醐天皇から離反しなかったのか?」

顕家様は、死の7日前に書かれた上奏文で後醍醐天皇の政治を痛烈に批判していました。
それならば、朝廷が南朝と北朝に分かれているのですから、
「南朝の後醍醐天皇を見限って、北朝の光明天皇に仕えるという道もあったのではないか。」

しかし、顕家様は、その上奏文第7条(現存部分における第7条目)の中で

"もしそれ先非改めず太平致しがたくば、符節を辞して范蠡(はんれい)の跡を逐い、山林に入りて以て伯夷の行を学ばん。"
(もし、先に述べた不正を改めず、泰平の世をなすことが困難であれば、范蠡のように官を退いて山林に入り、伯夷のように隠遁したいと思う。)

と、「改めていただけないのなら隠遁する」と書いており、北朝側に寝返るとは書いていません。

後醍醐天皇を批判しながらも、どうして顕家様は裏切らなかったのか。
それでは北畠家と、二つに分かれた皇室のうち後醍醐天皇が属した大覚寺統との関係を見てみたいと思います。

皇室が大覚寺統と持明院統の二つの皇統に分かれたのは、鎌倉幕府の後ろ盾により即位できた後嵯峨院が、息子の中で、兄の後深草院と弟の亀山院のどちらを正嫡とするかを自分で決めず、鎌倉幕府に委ねて亡くなった事に始まります。
こうして後深草院の系統である持明院統と、亀山院の系統である大覚寺統が、鎌倉幕府をはさんで皇位継承争いを繰り広げるようになります。
言い換えれば、皇位継承にかかわる立太子や即位に幕府が介入してくるようになりました。


皇室が2統で権力争いを繰り広げれば、それに伴い、公家社会も持明院統寄りのグループと大覚寺統寄りのグループが出来てきます。
公家にとっては、自家の存続と繁栄が最も大事なので、持明院統か大覚寺統のどちらに付くかをはっきりと打ち出すことは、大きなリスクを伴います。
ですから、たとえ持明院統寄りの家であっても、大覚寺統へのつながりを全く持たなかったわけではないでしょう。
しかし、北畠家は大覚寺統寄りであることを鮮明に示していました。
それは、北畠家の祖である北畠雅家が後嵯峨院と同時に出家、その子の師親は亀山院の出家に伴って出家、その子の師重(顕家様の父である北畠親房の実父)も後宇多院の出家に伴って出家していることから明らかです。
(ちなみに、顕家様の正妻の実家の日野家は、持明院統寄りであったようです。
顕家様の正妻の父 日野資朝は、日野家が持明院統に仕える家であるのに、それに逆らって大覚寺統の後醍醐天皇に仕えたために、親から勘当されてしまったとのことです。ということは、日野家は持明院統派であることを示していますね。)


これら、三代にわたる出家は、北畠家の大覚寺統に対する忠義心の表れとも取れますが、一方では、持明院統との強力な繋がりを持っていないがために、「持明院統の政権下では出世が見込めない」と、世を儚んで出家したとも考えられます。
なぜ、北畠家が持明院統との繋がりを持たなかったのか、もしくは持てなかったのかは不明です。
もしかすると、持明院統は比較的親幕府の傾向があったことと、嫡男の座を幕府との繋がりの強い弟の中院通成に譲らざるをえなかったために、兄である雅家が親の跡を継げず北畠家の祖とならざるを得なかったことが関係しているのかもしれません。(詳細はこちらへ→

このように、

・北畠家の盛衰は大覚寺統の盛衰とリンクしていること、
・大覚寺統の盛衰すなわち皇位継承に幕府が介入してくること、
・ひいては自家の相続にも間接的に幕府が関わってくること・・・


このような背景から、北畠家は反幕府親大覚寺統という傾向だったではないでしょうか。
つまり、「北畠家の人間であること=大覚寺統派の公家として生きること」が決定付けられていたと言うことではないでしょうか。だからこそ、後醍醐天皇の政治を痛烈に批判しながらも、顕家様は持明院統の光明天皇に仕えるという選択肢はなかったのではないかと思います。

“武士たる輩、言へば数代の朝敵なり”と、
北畠親房は『神皇正統記』に書いているそうです。
この言葉は、「朝敵」という言葉を使ってはありますが、「北畠家にとっても敵である」という思いが含まれているような気がします。
そして、この一文は親房のみならず、北畠家の思想や行動様式の根幹だったのではないでしょうか。

(顕家様は若かったので、親房ほど頑なな考え方ではなかったかもしれませんが、親房の思想の影響を受けていると言われているので、基本的な考え方は親房と同じと思っています。)

(皇室内の権力闘争、それに対する幕府の介入、大覚寺統と北畠家の関係は、もう少し複雑だったようですが、分かりやすくするために大まかな傾向でまとめました。)

余談ですが、顕家様が上奏文で
"もしそれ先非改めず太平致しがたくば、符節を辞して范蠡(はんれい)の跡を逐い、山林に入りて以て伯夷の行を学ばん。"
と書いていたのは、『孟子』のこの一説の影響かもしれません。
(顕家様の父である親房の思想の背景には孟子があると、推察されています。それで、親房の思想の影響を受けていると言われる顕家様の思想の背景にも孟子があるのではないかと考えました。)

『孟子』巻10「万章章句下、九」に書かれている部分の要約です。

斉の宣王が卿(=大臣)の責務について孟子に質問したところ、卿には貴戚の卿(=王と同姓の卿)と異姓の卿がいる。
貴戚の卿は、君主に過失があれば誡め、それを反復しても聴き入れられない時は退位させる。
異姓の卿は君主に過失があれば誡め、それを反復しても聴き入れられない時は、その国を立ち去ると言った。


顕家様は、皇室の人間ではなく臣下の身分ですから、異姓の卿に該当します。
それで、「君主に過失があれば誡め、それを反復しても聴き入れられない時は、その国を立ち去る」
こういう立場を取ろうとしたのではないでしょうか。

資料:『北畠親房』(岡野友彦)、『太平記の群像』(森茂暁)



平成22年(2010)8.30