顕家様関連年表 その3

注)日付については、資料によって違っている場合もありますので、参考程度にとどめられるようお願いいたします。

年(西暦) 西暦月日 出来事
延元2/建4年
(1337)
1月1月 2月2日 親房 顕家に西上を促す 
1月8日 2月9日 顕家 国府を多賀城から霊山城へ移す
1月25日 2月26日 顕家 京都奪還の綸旨に対して奉答書を記す(霊山城が敵に囲まれ、奥州が安定していないため、すぐには上洛できない。目下、脇屋義助(新田義貞の弟)とも通謀してその準備中である)
3月 4月2〜30日 金ヶ崎城陥落
恒良親王は捕らえられ、その後毒殺される。尊良親王は自害。
新田義貞は杣山へ逃れる。
8月11日 9月6日 顕家 義良親王を奉じ、霊山城を出発
8月19日 9月14日 顕家 白河関を越えて下野に入る
12月8日 12月30日 顕家軍 小山城陥落
12月13日 1338年
1月4日
顕家軍 利根川で北朝軍を破る
12月16日 1月7日 顕家軍 武蔵安保原で戦う
12月23日大寒 1月14日 顕家 鎌倉に攻め入る
12月24日 1月15日 顕家 鎌倉に入り、飯島・椙本で戦い、占拠。足利義詮は敗走。斯波家長は自殺(戦死の説もあり)
延元3/暦応元年
(1338)
1月2日 1月23日 顕家 鎌倉を出発
1月7日 1月28日 顕家 三島神社に伊豆国安久郷を寄進。天下泰平、所願成就を祈る
1月12日 2月2日 顕家 遠江橋本に到着
1月15日 2月5日 足利直義 吉川彦次郎に顕家討伐の為に高師冬に属して海道に向かわせる
1月21日 2月11日 顕家 尾張に入る
1月22日 2月12日 顕家軍 尾張黒田宿に到着
1月24日 2月14日 顕家軍 阿志賀川で今川五郎入道及び三浦新介軍と戦う
      青野原で上杉らの軍を破る
1月25日 2月15日 顕家 美濃の勝報を親朝に伝え、国内を静謐させる
顕家 美濃より書を大蔵少輔清高に与えて戦況を報、奥州鎮圧を命じる
1月27日 2月17日 顕家軍 垂井・赤坂・青野原に陣をひく
1月28日 2月18日 小笠原貞宗 足利勢に加わり、顕家らの軍と戦う
顕家軍 美濃青野原から伊勢に走る
1月 1月22日〜2月20日 熱田大宮司摂津昌能 顕家と尾張に会し、堀口貞満は美濃に来会する
2月3日 2月23日 顕家 垂井宿より伊勢に奔る
南朝 恵良惟澄に顕家の西上を告げる
2月4日 2月24日 高師泰・師冬・細川頼春・佐々木氏頼・佐々木高氏ら南朝軍を要撃するため京都を発し、東下する
2月6日 2月26日 高師泰・師冬・細川頼春・佐々木氏頼・佐々木高氏ら、京都より黒地川に至る
2月14日 3月6日 顕家 伊勢雲出川及び櫛田川で戦う
国魂行泰 南軍に従軍する
2月16日 3月8日 再び櫛田川において戦う
2月21日 3月13日 奈良辰市及び三条口に戦う
新田義興 顕家に従って南都に入る
2月28日 3月20日 奈良般若坂の戦い(分捕切棄の法が採用されるほどの激戦)
顕家 敗れて河内へ走り、義良親王 吉野へ逃げる
2月 2月21日〜3月21日 伊達行朝 顕家に陪して鈴鹿を経て奈良に入る
田村荘司輝定 顕家に従軍、西上
春日顕国(北畠顕信の説あり)八幡に陣する
3月8日 3月29日 天王寺の戦 奥州軍 勝利
3月9日 3月30日 足利直義 天王寺へ向かう
3月12日 4月2日 高師直 八幡及び天王寺を目指し、京を出発
3月13日 4月3日 高師直 春日顕国が拠る男山城を攻める
新田義興 北畠顕信とともに男山に拠る
北畠顕信 兵を率いて男山に拠る。これを高師直が攻める。
3月14日 4月4日 奥州軍 天王寺、阿倍野及び河内片野で戦う
高師直 天王寺に陣する
3月16日 4月6日 顕家 再び天王寺(阿倍野?)で北朝軍と戦い、敗れて和泉に退く
3月21日 4月11日 高師直 南方へ出発
3月22日 4月12日 顕家 権大納言正二位に任叙される
3月 3月22日〜4月20日 伊勢法楽寺の寺将多宝丸 顕家の軍に従って天王寺で戦死
5月6日 5月25日 奥州軍 和泉堺浦の町屋を焼く
5月8日 5月27日 顕家 和泉坂本郷並びに観音寺に城槨を構え、田代基綱とたびたび戦う
5月9日 5月28日 奥州軍 和泉熊取、佐野、長滝の各地に進撃する
5月10日 顕家東国経営の上奏文を草する
5月15日 6月3日 顕家 後醍醐天皇に諫奏文を上奏する
5月22日 6月10日 顕家 高師直と和泉堺浦及び石津で戦い、敗死
    南部師行、名和義高らがこれに殉じる
6月21日 7月9日 藤原資子(顕家の妻)河内歓心寺にて尼となる
参考資料
「南北朝の動乱」(集英社)
「北畠氏の研究」(大西源一)
「南北朝編年史」(吉川弘文館)
「日本暦綴 日本暦西暦対照暦」
          (辻通商梶j

2008.4.8