我が身に纏わりつく悪魔! 姿をみせろ!

 

 第二次大戦後のグランプリを背負ったのが英国のエンスーだった事はすでに紹介したが、例外はある。

戦前は、それこそ国家の威信を背負ってグランプリの主役を務めたメルセデス・ベンツであったが、敗戦国の

戦後は長かった。ベンツがグランプリに復活したのは1954年の事だった。

 

Mercedes Benz W196R(1954年 France G.P.)

  

 当時は車輪を覆うか否かについて明確な規則がなかったから、ストリームラインのGPカーが過去に

無かったわけでは無い。コーナーが多いテクニカルなコースでは、前輪が見えた方が操縦しやすく、

加えて軽量だから、オープン(脚出し)が当時のトレンドだったのだ。ただしストリームラインであっても

ベンツ SSKL(1932 年)やアウトウニオン(1937 年)は裸のクルマに一枚着せたのに対し、W196は

開発当初から、ストリームとオープンの二本立てで計画が進んだ。

 

 一般にクルマの空気抵抗は速度の2乗に比例し、所要馬力は速度の3乗に比例する

だから空気抵抗が5%軽減した場合と、馬力が5%増加した場合では速度の増加は大きく異なる。同じ比率なら

空気抵抗を減らす方が、馬力増強の2倍近く速度向上に貢献する。

 オープンのボティ単体では前面投影面積が小さいが、車体全体ではストリームが2割ほど空気抵抗を

軽減する事をベンツは1/5模型の風洞実験で確認した。つまりオープンでは 158km/h に留まるエンジンでも、

ストリームならば 175km/h に至るのだ。尤も重量的な問題と天秤にかけると微妙だが。

 結果的に言うとストリームの開発が、高速サーキットであるフランスGPに合わせて先行した。

 

MercedesBenz Transeporter & W196R(1955年 Italian G.P.)

 

  しかしよく見ると、この車体の形状は飛行機の翼に見えなくもない。なにか事が起きたら空の彼方に

舞い上がりはしないだろうか?

 実際に惨事が起きた。1955年6月11日(土)の午後6時28分、あの有名なル・マンでの事故である。

プロトタイプのジャガー・Dタイプがピットインのため急減速し、真後ろに居た市販車改造のオースティン・

ヒーレーはやむなくコースを左に変更、この瞬間、突然進路を塞いだオースティンの後に飛び込んだのが

ベンツ300SLRである。ベンツ300SLRは前照灯を備えたW196の姉妹車で、車体の形状はW196

大して変らない。オースティンを踏み台にしたベンツ300SLRは、空中を大きく舞い上がり、観衆渦巻く

グランド・スタンド脇の側壁に墜落した。そのとき分解した部品がスタンドに飛び込み、ベンツ300SLR

運転していたピエール・ルヴェーはもとより100人以上が死傷した。

 ベンツは1999年にも、ばかっ派手な離陸事故を、しかもル・マンでやらかすのだが・・・

 

 殆どのクルマ(特に市販車)の車体は多かれ少なかれ空力的なリフトがある。この原因は空気抵抗の低減

結果、車体が翼のように作用してしまうためである。

空気抵抗が速度に及ぼす影響は古くから知られていたが、空気の流れが操縦性に与える影響については、

実のところ1960年代まで議論に上らなかった。                   (Fulcrum 著)