■山形交通三山線                              寒河江市・西川町
    羽前高松−間沢 11.4q         
三山電鉄50年の歴史

 【略 歴】

 1926(大正15)年12月23日 三山電気鉄道開通
                    (羽前高松−海味)
 1928(昭和3)年3月22日   海味-間沢間2.6qが延長開通
 1943(昭和18)年2月     「山形交通」へ会社名を変更
 1974(昭和49)年11月16日 さよなら列車運行
 1974(昭和49)年11月18日 廃線


”三山電鐡開通す”


 山形交通三山線は、1926(大正15)年12月23日、三山電気鉄道として開業した。当初の開業区間は羽前高松-海味(かいしゅう)間8.8qで、上下6本、運行間隔2〜3時間(ネコパブリッシング:RMLIBRALY78 山形交通三山線)。所要時間は28分だったという(西川町HP)。
 1928(昭和3)年3月22日には、海味-間沢間2.6qが延長開通し、羽前高松-間沢11.4qの全線開通となった。
 山形県では初の電化鉄道の開通とあって、県内でも多くの注目を浴び、開通を伝える地元紙「山形新聞」(大正15年12月23日付)は「本縣では最初の三山電鐡開通す」「全國の電鐡に比し 恥かしからぬ規模」と1面で大々的に当時のようすを報じている。



■「山形交通三山線」へ

 1943(昭和18)年2月、三山電気鉄道は山形交通と会社名を変更。当時、国策として進められた戦時統合により、同年10月1日、置賜地方の高畠鉄道と北村山の尾花沢鉄道、山形交通自動車商会、今村自動車を吸収合併し、内陸地方広域を事業エリアとする一大交通会社となった。三山線は「山形交通」の1路線として、新たなスタートを切った。

(左)田園の中を走る三山線
(C)www.FreightCar.jp

(右)羽前高松駅に掲示されている三山線の車両の写真(年代不明)

=2007年6月2日

■華やかな活躍 1950〜60年代

 
  三山線が最も活躍したのは1950年代から1960年代。旅客、貨物共に順調で、通勤通学の足として、資材や物資の輸送手段として華やかな時代だった。


1960年代に使用されていたものと
思われる電車側面用の行き先表示板

=2007年10月21日、六十里越 関の茶屋


■廃止へ
 

 1960年代後半になると、旅客数、貨物の取り扱いとともに減少し始めた。原因として挙げられるのは車社会の到来。この頃から山形県内でも自動車保有台数が増加し始め、特に自家用車の増加は1960年の約2万台に対して、1973年には約29万台という爆発的な増加を見せた。鉄道からマイカーへの乗り換えが一気に加速し、三山線も例外なくその煽りを受け、厳しい営業状況に追い込まれていった。
 経営状況の悪化により、三山線は1974(昭和49)年11月18日廃止された。
 前々日の11月16日にはさよなら列車(花電車)が運行され、「さよなら三山線」のヘッドマークを付け、全体に飾り付けが施された列車(モハ111、112)が無料乗車会として運行された=写真・白岩駅に停車する「さよなら列車」
 同日、置賜地方の山形交通高畠線も廃止となった。

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