自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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・雑誌掲載記事の採録
703.
秋から冬への花輪線
(レイル104号掲載)
このフアイルは雑誌の記事を改めてHP用に再構成しましたので、画像のトリミングなどは異なりますのでお許し下さい。
『秋から冬への花輪線に8620形機関車を訪ねて』
写真と文:田辺 幸男
1.プロローグ 花輪とはとこだ?
蒸気機関車が現役であった昔から,“奥羽山脈越えである竜ヶ森の“ハチロク SL三重連"といえば東北地方の“花輪線"だと誰もが答えるほど有名であった.
そして,この花輪線の線名の由来となった陸中花輪駅は東北の駅百選に選定されているのだが,この駅の所在する花輪町の知見を語れる人は少ない.ここでは最初に花輪の町が現存している秋田県鹿角郡(かづのぐん)鹿角市周辺の歴史から述べてみよう.
この秋田県の東北部は秋田県能代市で日本海に注いでいる米代川(よねしろがわ)の上流部に当たっていて、古くから“鹿角郡"と呼ばれていた.ここは米代川を中心に東に奥羽山脈と,西に尾去沢の嶺々に挟まれた南北約20qレ東西約4qの細長く開けた鹿角盆地を中心とした地域であった.この“鹿角"の地名の由来は,この一帯を高い山から見ると米代川に注ぐ幾筋かの支流が鹿
の角のように見えたからだと伝えられている.
江戸期になると,金や銅を産出する鹿角郡は陸奥国に属し,南部藩(盛岡藩)が領していたこともあって,明治元/1868年に陸奥国が5か国に分割された際には盛岡と同じ陸中国に属することとなった.しかし,続く明治4/1871年11月の廃藩置県では,鹿角郡は米代川流域でもあり,秋田県と地形的な一体感を考慮し岩手県となる所を転じて秋田県に編入されたのであった.
この鹿角郡のほぼ中央部に古い時代に“紡錘状台地の端の地形"を由来とする花輪村が成立していたようだ.17世紀の始まりの頃から鹿角郡内に多くの金鉱山が開発され,南部藩の財政を支える大きな柱となった.その後,金が銅に移るが,それらを盛岡城下へ運搬するための路として“鹿角街道"(明治以後は津軽街道と呼ばれた)が整理された.また日本海経由で北前船で関西へ銅を届けるルートとして,花輪から大湯を経て奥羽山脈を来満峠(らいまんとうげ 標高733m)で越え,青森県の三戸(さんのへ)に出て奥州街道を経由し南部藩野辺地港に達する道筋も多く利用されたという.この道筋は現在は国鉄バスが通っている.このようにして花輪の街ぱ南部藩の盛岡城に次ぐ重要拠点として栄えたのである.
2.“花輪線"の生い立ち
明治の中ごろを過ぎると,東北地方には縦貫鉄道として中央部に東北線が,日本海側には奥羽線が開通していた.次に,
この両線を東西に連絡する東北横断ルートに国の鉄道を誘致しようとする運動が北から南までの各地に始まった.そして秋田県北部は奥羽線の大館駅が明治32/1899年に開業すると,それを待っていた如く大館を起ズ:バこ西へ,奥羽山脈を抜けて岩手県の盛岡とを結ぶ東北横断路線の誘致運動が始まった.やがて盛岡側でもこれに呼応する運動が盛り上がって来た.明治25/1892年,政府では将来,国が建設すべき鉄道路線を規定する“鉄道付設法"を公布したのだったが,残念ながら大館-盛岡 間の路線は選に漏れてしまった.
そこで大館町側では,有力者ら私鉄会社を創立して路線の建設を行おうとの方針に転じた.その背景には,この沿線に束北二大鉱山と呼ばれていた尾去沢鉱山からの大量の貨物,それに花輪町付近からの貨物や旅客など輸送需要が見込まれるということがあったようだ.やがて大正2/1913年に軌間1,067 mm蒸気鉄道の秋田鉄道会社が大館町に創立され,当面の事業目標として大館-毛馬内-花輪の鉄道敷設免許を申請し取得することができた.そして着工し大正4/1915年1月には大館から尾去沢鉱山への窓口となる大滝温泉まで,続いて大正4/1915年に毛馬内駅(一代目,現在の末広駅)まで開通した.ここで新たな延伸計画が持ち上がった.それは,当地から北へ僅か10qの所にある小坂銅鉱山の町,小坂までの路線であって、毛馬内-錦木(今の十和田南駅)-小坂 間の路線敷設免許の取得を始めたことであった.そして、大正9/1920年に毛馬内(1代目、今の末広)から錦木(今の十和田南駅)が開通して,駅は毛馬内駅(二代目,今の十和田南駅)として開業した.この駅の場所は万毛馬内の市街地から南に大湯川を隔てて離れており,そのままの線形で進めば毛馬内市街を経て小坂へ向かう予定となっていた.大正12/1923年になって終点の花輪に向け工事に着手した.その延伸工事は末広(に代目の毛馬内駅)からではなく,既に小坂方面に向けて開業していた毛馬内(一代目、今の十和田南駅)から延伸が行なわれた.これは秋田鉄道が、メインラインは小坂方面であり,花輪方面は支線扱いとしていたことを物語っている.この結果,後になって,小坂方面への延伸が未着工のままで秋田鉄道が国鉄に買収されてしまい,好摩-大館 間の花輪線が形成されると,あたかも十和田南駅(代日の毛馬内駅)が意味のないスイッチバック駅で,運転に不便をかけ続けているというようになってしまった.この単なる平地に設けられたスイッチバック配線の駅の存在には,大正期の鉄道人が果たせなかった大きな夢が隠されていると思えてならない.
やっど大正12/1923年11月になって、終点の花輪町まで開通し、駅名は花輪駅ならぬ“陸中花輪駅"となった.
*ページ2
〈写真 0001:bP91023:※代川鉄橋〉
〈撮影メモ〉
米代川を絶気運転で渡る貨物968列車.
橋の下は豊かな水の流れ,兄畑-湯瀬 間.
昭和44年10月21日撮影.
*ページ3
これは12年も前から“花輪駅”が群馬県を走る足尾線に開業していたからで,慣例に従い旧国名が頭に付けられてしまったのである.この“花輪駅"は共に日本で有数の銅を産出した足尾銅山や尾去沢銅山への鉱山鉄道の役割で建設された路線に存在したという意味で縁が深い.
一方、盛岡市側では続けて国鉄線の誘致活動に励んできたものの,著しい進展をは見られなかった。続いて、地方で国が建設すべき鉄道路線を追加規定しだ「改正鉄道付設法」が公布されたがここでも大館-盛岡 間のルートは採択されなかった.ところが驚いたごとに、『第4号:青森県三戸町より七戸町を経て東北町千曳に至る鉄道、第5号:青森県三戸町より秋田県鹿角市十和田毛馬内を経て鹿角市花輪に至る鉄道』が予定線になっていた.この路線に秋田鉄道を加えると東北本線千曳駅から奥羽本線の大館駅を結ぶ東北横断鉄道が実現しようとするものであった.それにも負けずに,盛岡の人々は盛岡-陸中花輪アイダ "の国鉄線の誘致請願を続けた.これに対して,政府では明治43/1910年に公布されていた地方私鉄の活性化を図る目的の「軽便鉄道法」に注目していた.
その後間もなく,この法の適用の範囲が国鉄にも認められたことに注目した.その適用条件には、地方路線で高規格でなくともよく,なおかつ,その地域の民間の企業者がない場合や将来的に成長の見込みがある路線の場合に限り,その路線が鉄道敷設法に規定がなくても帝国議会で予算の承認を得られる場合には,国鉄軽便線として建設が出来ると云う特例が生まれた.そこの実現化に当たってのルートの検討がなされた.
花輪軽便線の建設ルートには、その大部分が津軽街道(元 鹿角街道)に沿ってはいるか,各所に別のルートを採用していた。例えば陸羽街道からの分岐点は,滝沢に対し東北本線からの分岐は好摩が選ばれている.また奥羽山脈を横断するのは,江戸時代の鹿角街道の梨の木峠の直下の藤倉トンネルで抜けているなどが見受けられた.驚くことは,東北の屋根である奥羽山脈を二つの峠で越えるような山岳路線が自然を最も損なわない軽便線で建設されたことであった。このダイナミックな長い山越えの風情を見ることができたのは幸運の賜物であるといえるだろう.そして,東北本線の好摩駅と秋田鉄道の陸中花輪駅を結ぶ花輪軽便線か10ヵ年計撃フ予算で帝国議会の承認を得た.その後,軽便鉄道法は廃止されたが,花輪軽便線は花輪線として建設が進められることになった.やがて国鉄線路規格の中で最も簡易な軽便線規格としての花輪線か大正10/192L年12月に好摩-平館よ 間より着工し,順次開業して昭和6/1931年陸中花輪まで延伸全通した.その後,昭和9/1934年には秋田鉄道が国有化されて花輪線に編入された.ここに秋田県鹿角郡を貫く動脈が完成し,合せて全長106.9qの東北横断ルートが完成した.
3.好摩から陸中花輪まの沿線風景
花輪線の起点である好摩駅は盛岡駅から約21qほ北上した地点にあって,岩手県のシンボルである岩手山の山すそを右手に見て、その遠方に連なる奥羽山脈の八幡平(はちまんたい)の山々を源とする北上川の大資流である松川の広い川幅に架けられた松川鉄橋を渡って、北上川右岸の河岸段丘を登った所が好摩駅であった.ここの二面三線のホームノ南置くには、花輪線用の蒸気機関車の向きを変えるためのターンテーブル(転車台)が設けられていて、煙を上げている8620型の姿が左窓からかいま見えた。
これは後日談なのだが、この8620型SL(全長 16,765mm、総重量 83.33 t)にピッタリの寸法の50フイート ターンテーブルは出所が明確な点で最古の名物施設で花輪線開業の
1922年(大正11年)に設置されたと云う。その来歴は、東北本線の前身である
私鉄の日本鉄道が東北線のSLの大型化に際して、1897年(明治30年)にイギリスのRANSOMES & RAPIER社製の「50フイート バランス型ターンテーブル」を15基を輸入したものの生き残りであるというのであった。その特徴は、全長:50ft(約15.24m)、自重:17トン、積載荷重:最大95トンであって、横から見ると底がすり鉢状になっている。バランスト型と呼ばれる構造の上路式転車台で、上路プレートガーダーの下部の形状である。回転中は転車台桁とSLの荷重は中央支承のみで支える。桁端車輪が円形レールに接しない状態で回するので手押しで回転させることができた。
〈写真 0002:bO70442:好摩駅のターンテーブル〉
〈撮影メモ〉
好摩駅のターンテーブルで転向中の88620号,ターンテーブルの回転の動力は人力、
円弧を切り取った形をした鉄製上路式で,直径507ィートの規模を有し,台の両端に車輪を付け,回転申は桁端車輪が円形レールに接せず荷重を中央支承のみで支えるバランスト型と呼ばれるタイプである。1897年イギリス ロンドンRANSOMES&RAPIER社製。現在も製造銘板が残っているという。
昭和42/1967年7月28日撮影.
〈写真0003:100411:竜ヶ森トンネル飛出し、龍ヶ森−赤坂田〉
〈撮影メモ〉
白煙を吹き上げて竜ヶ森トンネルから勢いよく飛び出してきた貨物380列車.牽引機は38676.トンネルポータルは玉石積み.余りの寒さと感動のあまり,ちょっと手振れしてしまった.
竜ヶ森-赤坂田間.
昭和43年1月13日撮影.
台)が設けられていて,煙を卜げている8620の姿が左の窓からかいま見えた.
さて,好摩駅を北に向かって東北本線に沿って発車,すずに街並みはとぎれて大きな左カーブに入り東北本線と分かれるに従い大きく見える岩手山を反時計回りに西へ里山風景の中を快走シテ行く.やがて架線が張り巡らされている構内に入ると,ここは花輪線第一の難読駅である“大更駅(おおぶけえき)"であった.この駅に接続している松尾鉱山鉄道のED25形電気機関車が貨車の入江替えに励んでいた.この専用線が昭和初期に開業しか時は,Eタンク機4110型が3輛
〈写真 0004:100431:竜ヶ森駅発車の旅客列車〉
〈撮影メモ〉
竜ヶ森駅発車の旅客1326列車.牽引機は
78646.背後の大きな防雪柵が,豪雪地帯
であることを示している.客車はー輛半ほ
どが写っている.1輛目の客車はオハフ61.
昭和43年1月14日撮影
(4115,4116,4119)が主役であったという.大更駅から北工するにつけて山塊がどんどん近づいてくようだ.ここは八幡平の東麓に掛かっていてやがて平館(たいら
だて)駅となる.
岩手松尾駅からは,狭く蛇行する長川の谷問を遡り,やがて左手の山肌に取り付いて33.3‰の急勾配,最小曲率半径120mの急カーブの連続する区間に入る.
そして右側に小規模なゲレンデが見えてくると,龍ヶ森駅に到着.ここにはスキー場のほかには何もなく,国鉄職員が住む官舎だけがあったぐらいの山の奥であった.私か訪ねた
*ページ5
〈写真 0005:bO90921:好摩駅構内(花輪線の86〉
〈撮影メモ
早朝に東北本線の列車から花輪線に乗り換えるため,積雪の好摩駅に下車した時,機関車が早くも活動を開始していたのをスナップした一枚である.
昭和43/1968年1月13日撮影.
*ページ6
〈写真 0006:bP00342:逆向き後補機付貨物が竜ヶ森トンネルを目指して〉
〈撮影メモ
赤坂田から積雪の大場谷峠を目指して進む,逆向き後補機付き貨物385列車.編成は2軸社ばかり13輛だ.吹き上がった白煙は強い季節風に押し流されていた.県道が峠を少し下った所から俯瞰撮影.
昭和43/1968年1月13日撮影.
この頃の県道は車がやっとすれ違えることができるほどの岩手県道(主要地方道)7号 盛岡十和田線となっていたが,まだ砂利路のままであった.サミットの手前で右手に下る狭い小径(こみち)が駅に通じていた.既に駅は信号場から龍ヶ森駅に昇格していて客扱いを始めていた.駅の横にはダブルルーフのオハ31の車体が車輪と台車ごと外され枕木を組んだ台の上に載せられた形で,スキー客のための宿泊ロッジとなっていた.
昭和63/1988年に観光地らしい駅名としで“安比高原駅”に改称した.ここを出てトンネルを抜けると,その後ぱ右側の山地に沿いながら安比川の谷を下り,荒屋新町駅となる.ここにはこじんまりとした機関支区があり,ターンテーブルと4線だけの欽骨鉄筋コンクリート造りのモダンな扇形庫などがあった.荒屋新町を発車すると左へカーブし,田沢の谷間へと入り,まもなく横間に到着.藤介トンネルでサミットの奥羽山脈を越えて米代川流域の円山駅となり,その後は蛇行し,北流する米代川を何度も渡りながら湯瀬の山峡を経て,この鉄道の線名となった陸中花輪"(現,鹿角市)へと到着した.この奥羽山脈を越えた鹿角地域は現に秋田県下であるのだが,江戸時代には南部藩の支配下にあったから“陸中”という国名がかぶせられていたのだった.
4.ハチロク撮影行
今になって思い返してみれば,この冬の旅は“奥中山三重連”の最後の冬たった.盛岡駅から早朝の列車に乗り込み,岩手松尾で下車した.補機は下り列車は正向,上り列車は逆向き.すなわち赤坂田から龍ヶ森に登ってくる列車は逆向き補機となっていた.
岩手松尾駅からの線路は狭い谷間の積雪に覆われた稲田と同様に雪に埋もれていた.この時は、ゴム長靴だけの装備だったから,山へは登れず,背景が物足りないのが悔やまれた.約7kmを通過するのに23分もかけて登るのだった.この日も晴れたかと思えば吹雪いになったりして,日まぐるしく天気が急変して私をヤキモキさせたが,運良く数ショットをこなした.
その中には,斜めにゆっくりと通り過ぎる貨車の列の後ろから逆向き重連の後哲機の煙とブラストの音が聞こえてくるシーンを捕らえたものもあった.龍ヶ森の風情としては,時折見られた三重連も良いが,前引き後押しの運行の方がふさわしいように思えたのだった.この大正生まれの老雄,ハチロクたちの活躍の舞台である“龍ヶ森越え"に無煙化の波が押し寄せて来てDE10が投入されたのは昭和46/1971年10月であった.
〈紀行文終わり〉