自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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にある送付先へドウゾ。)
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写真掲載誌 その2.
701. 「レイル・95号・2015年7月刊、「米山海岸と笹川流れを訪ねて」
-応化31クラス会贈のための記事編集-
◆応化31クラス会の皆様へのご挨拶
「雑誌掲載の写真の贈呈」
去る6月4日に東京池袋で応化け31の同級会が開かれました。
数年ぶりで出席出しました。この時に2年ほど前にき季刊の鉄道趣味誌に懐かしい新潟県野日本海岸に沿って走るSLの写真が掲載されましたので、そのゲラ刷を出席の皆様に回覧しました。幸いにも、発刊された雑誌そのものは今は亡き山口満夫、小林信夫、春日孝二郎の皆さんに贈呈してしまいました。
そこで、今回はフイルム原盤からの写真にそえて紀行文を抜粋して改めて編集制作しました。自宅のプリンターで刷った写真なので雑誌とはいささか趣が異なりますがご覧頂ければ楽しんで頂けると存じます。
田辺 幸男 拝
HP(ホームページ)のタイトルとアドレス:
自動車塗装の自分史とSL写真展-田辺幸男のホームページ
http://www5.plala.or.jp/stmlo9600/index.html
メールアドレス:llz8933@sea.plala.or.jpP
◆掲載された雑誌の書誌:
『レイル』 95号・2015年7月21日発売。
標題:「米山海岸と笹川流れを訪ねて」
記事解説:日本海に沿って南北に長い新潟県.鉄道も険しい海岸線を縫うように敷かれました.その代表的な例が北の羽越本線笹川流れ,そして南の信越本線米山海岸で
す.地元出身の田邊幸男さんが昭和40年代はじめに地の利を活かして撮影された情景
をグラフとして構成してみました.(編集長・前里 孝記)
◆雑誌掲載記事の抜粋
『米山海岸と笹川流れを訪ねて』 写真と文:田辺 幸男
・プロローグ
新潟県は約330kmにも及ぶ日本海に面した海岸線を本州側に持っており、その中を鉄道線路が海浜に直面して敷設されており、そこを白煙をなびかせてSLの牽引する列車が走って来る情景を求めた記録をお目に掛けたい。
その最初は,三分の一ほど北の位置にある米山海岸で,信越本線の米山駅から鯨波駅の間に相当している。その次は,北隣の山形県に近い北端にある笹川流れと呼ばれる海岸線で,羽越本線の桑川駅から越後寒川駅の間に当たっていて,どちらも景勝地として知られていた地域であった。奇しくも、この海岸沿いを北上する街道は、その昔に源義経一行が陸奥(むつ)の国の平泉へ向かう逃避行のルートに当たっていたのだった。実は、私は小学5年から大学卒業まで新潟県人だったこともあって、紀行文は多分に“地元びいき”となってしまったことをお許し頂きたい。
これからお目に掛ける掲載記事は、先ず4枚の写真を御目に架けてから、続いて紀行文が続きます。
〈0001:信越本線笠島駅俯瞰〉
〈写真の撮影メモ〉(1967年/昭和42年10月9日撮影)
笠島駅俯瞰 「山肌にへばりついた笠島の家並み」
米山海岸の松ヶ崎の岬に通じる丘陵の中腹にある崖から俯瞰撮影をしています。右に海、汀に接して線路、この先に漁村の民家が段々とぎっしりならんでいた。その中を旧 北国街道や通っていた。出発して行くのは下り貨物の493レです。山肌に見える左側の大きなトンネルの入り口は建設中の複線電化用のトンネルです。
〈0002:信越本線青海川駅俯瞰〉
〈写真の撮影メモ〉 (1967年/昭和42年10月9日撮影)
米山海岸に突き出した鴎が鼻(かもめがはな)に通じる丘陵の尾根からの俯瞰です。幸いにも 「米山さん」が姿を見せていた。青海川駅を発車する493列車。米山海岸髄一の絶景です。
〈0003:「笹川流れ」のシンボル 「蓬莱山(ほうらいさん)俯瞰〉
〈写真の撮影メモ〉(1970年/昭和45年撮影)
この写真で狙ったのは、波立つ日本海の対馬暖流の渦巻く流れと、この地のシンボルである蓬兼山(ほうらいさん)の
山肌に見エ花崗岩(かこうがん)の質感、白い砂浜の渚(なぎさに刻まれた足跡の模様、それに白煙をなびかせたD51牽引の貨物列車の姿を,バランス良く写し込むことであった。ここでは当時珍しかったカラースライドでお目に架けた。
〈0004:「笹川流れ」の「蓬莱山」展望(カラー)〉
〈写真の撮影メモ〉(1970年/昭和45年撮影)
当時の県道は軽自動車がヤット通れる程度のトンネルが岩山に素掘りのままで使われていた。
そのトンネルを額縁にみたてて作品を作って見たがいかがでしょうか。
◆紀行文
・信越本線の米山海岸
この長さ 約12qも続く日本海に面する米山海岸には、南から「聖が鼻(ひじりがはな)」,「田塚鼻(士ヶ首)」、「松ヶ崎」、「鴎ヶ鼻(かもめがはな)」、「番神岬」などの断崖絶壁の岬が海に突き出している。ここは新潟と長野県境にある標高1,000mを越える関田山塊から北へ延びる東頚城(ひがしくびき)丘陵が海に迫っていて,その北内端には標高993mの米山が海岸から3kmも近い所にそびえていた。
この海辺に接するように信越本線は長短八か所のトンネルを貫いて かっての北国街道の難所 「米山峠」を走り抜けていた。
ここでは、 「米山さんから 雲が出た♪」の民謡 三階節で歌われている「米山」の美しい姿を背景に日本海岸を行くSL列車を俯瞰(ふかん)した写真をご覧に入れたいと思います。
そこで先ず最初に信越本線の直江津駅から下り柏崎駅方面の下り旅客列車に乗って、米山駅から笠島駅、青海川駅、鯨波駅までの沿線風景をたどってみました。
さて、車窓左側に日本海岸が現れるのはしばらくほく北上して柿崎駅を過ぎた辺りからであった。やがて海に突き出した岬に繋がる丘陵が迫って来て米山駅となった。ここは1961年(昭和36年)に鉢崎駅から米山駅に改められたのだが、実際の米山への登山口へは徒歩で40分も離れていた。この米山駅を出て古い宿場の家並み脇を1qほど進みと、聖ケ鼻(ひじりがはま)に通じる丘陵のすそに突き当たると直ぐに延長 192mの米山第1トンネルに入った。この第1トンネルを抜けると、そこには素晴らしい日本海が現れた。そこは人家もなく、ただ日本海のみがあるだけであった。すかさず長さが192mの米山第2トンネルに入った。ここを抜けると海辺に沿って走った。線路沿いに小さな集落があって、しばらくトンネルが途切れて走る間には、微妙なカーブを描いたり、煉瓦を積んだ橋台のある短い鉄橋を渡ったり、この辺りから落石防護柵などが見受けられるようになった。ここまで東へ進んでいた線路が北東に向きを変え、上(あげわ)輪集落の中に入って来た。この集落に流れる払川(はらいがわ)をコンクリートで固めた橋台に架けられた鉄橋を渡った。この川の上流は渓谷となっていて米山への登山ルートとなっている。ここは海からの季節風が特に強く吹く場所であったことから、全国に先駆けて防風ネットが装備されたことで知られるようになったと云う。
まもなく、行く先に迫って来た切り立った崖に穿たれた米山第3トンネルには重厚なロックシェードが付けられていた。その直前で山側には小さな滝が落ちていた。やがて米山第3トンネルの長さ 442mの闇の中に吸い込まれた。ここは米山海岸の中で最長のトンネルである。ここを出て約250mほど緩やかに左カーブを切って行くと次の米山第4トンネルの入り口となる。
この間、左の車窓からは日本海が防波堤の上に広がっているのが見えた。次の米山第4トンネルにも10メートルほどのコンクリート製ロックシェードが据え付けられており、そのトンネルノ延長は 248mとのことだった。この第4トンネルを抜けて次の米山第5トンネルに入るまでの間隔は意外と狭く感じられたのは両側にある海に突き出した半島のような丘陵のせいだろうか。そして海側は前と同じような防波堤が続きていて、その切れ目(出入り口)を通り過ぎる一瞬だけ視界が開けて小さな漁村が見えたようだった。一方の右手は山が迫っていて、ここには高く分厚いコンクリートの落石止めの上に、更にレールで組まれた落石防護柵が乗っかっている。
それに加えて、米山第五トンネルが口を開けている上の山が押しかぶさるように迫って来ることから、異様な閉塞感を与える場所であった。
実は、この延長 142mの米山第5トンネルが貫いている岩肌がむき出しになっている丘陵は田塚崎(牛ヶ首)の岬として日本海に突き出していた。この名は「寝そべった牛が水をのんでいる姿に似ている」ことに由来していた。この西側は高い断崖が切り立っていて、そこには“層内褶曲”と呼ばれる露頭が遠望出来たのだった。この垂直に削られた面には上下の泥岩層が整然としているのに対し、真ん中の暗色の地層層は上下に波打っていて地殻変動が起こったことを物語っていた。まるで暴れる竜の姿を思わせたのであった。
この米山第五トンネルを出ると、左には弁天島を控えた笠島漁港や砂浜が近ずいて来た。一方の山側の斜面には漁村の家並みがひばり着くように張り付いていた。やがて狭いホームを持った笠島駅に到着した。ここの駅は昭和26年に仮乗降場として設けられたのが始まりの新しい駅であった。この裏手は200mほどで海辺であった。
ここの汀から眺めた笠島集落の景色は風情がある。町は断崖の斜面に何段にもなって築かれていた。一番上は国道8号線沿いだが、本来の部落は下の北国街道に沿っている。部落の海側の一段と低いところは信越本線の線路が通っていた。
右手の山肌の低い所には、大きな断面の複線電化用の新線トンネル口をが、その手前には現役の単線トンネルが口を開けていた。この新しい長いトンネルは現役の3本分のトンネルを一気にぬけてしまっているのだが、あの米山海岸の絶景を眺めることは不可能になってしまったことは残念なこととなるだろう。
さて、笠島駅を出ると直ぐに小さな石と煉瓦で積んだ橋台のある鉄橋を渡り、その先で低い丘陵の下に掘られた米山第6トンネルの199mを走り抜けた。ここから次の米山第7トンネルに至る区間はすぐ左側は海であり、線路は海面から数mの高さを維持しつつ北進している。ここは全線中でも最も海に近接した所であろう。この間には明治時代に築かれた煉瓦積のアーチ橋の上を通過したり、次いで昭和36年に設けられたコンクリート製の重厚なロックシェードロックジェッドをつうかした。 この海側に並ぶ明り取りからは日本海に砕ける波飛沫が間近に見え、海鳴りの音と、光が線路内に充満していることだろう。
そして幾つつもの切り通しを通り抜けると次の米山第7トンネルとなる。この上の尾根は海へ突き出して松ヶ崎の岬となっていて、ここを抜けるトンネルの延長は329mとなっている。
この長いトンネルを抜けると、高さが数十Mの斜面に挟まれた幅200mを越える谷底平地へと踊り出た。すると、右の車窓の上法には昭和41年に開通した国道8号線に架けられた刀根山大橋の高さ53m、全長278.9mの威容が目に飛び込んでくた。その背後には米山の姿も遠望できた。また海側は青海川海水浴場の砂浜となっていて、一段と海辺が線路に近ずいてきていた。間もなく、日本一海に近いと云うキャッチフレーズで有名な青海川駅に到着する。ここは明治30年(1897年)に前身の北越鉄道が鉢崎(今の米山)−柏崎を開通させた2年後に新駅として開業した古い歴史を持っており、相対式ホーム2面と、ホームを連絡する跨線橋が設けられていた。印象深いのは、海岸寄りのホームには円形窓の付いている風避けがもうけられていたことであった。そして、当時発表の鉄道唱歌のなかでは、
『見わたす空の青海川 おりては汐もあみつべし』
と歌われていた。
そして、青海川駅の海側のホームを発車して間もなく切石を積んだ橋台に架かる鉄橋を渡った。この下を流れるのは延長約9qの谷根川(たんねがわ)で、左手はすぐ海に注ぐ河口で幅は約10mにも足らない小さな河川であった。ところが、秋になると県北の村上氏を流れる三面川(みおもてがわ)に次ぐ鮭の遡上(そじょう)の多い川であるだけでなく、その他の季節には岩魚(いわな)の天国として釣人には名を知られた川なのであった。それも米山の山麓が育んできた豊かな「ぶな」の森を源とする清冽な流がもたらした賜物であったし、それに上流には米山湖と云う水道用のダム湖が設けられて柏崎市民への飲料水を届けてもいたのであっった。
この先を約200mほど走ると最後の米山第8トンネル(延長 430m)のレンガ積みのポータル(坑門)が待っていた。こちら側の斜面は鴎が鼻(かもめがはな)と呼ばれる岬に通じる丘陵の尾根であった。この日本海に突き出た岬の先端には「福浦狸々洞」と云う天然の海食洞がある。これは海に面して奥行は80mで、奥の方に幅30m、長さ20m、高さ10mの岩室がある海面洞窟であって、何んと2万頭の四種類の
「コウモリ(蝙蝠)」が生息している「福浦狸々洞のコウモリ生息地」と云う県指定天然記念物なのであった。それに日本海へ落ちる夕陽の景観ポイントとして名高かった。一方で私たちのような「撮り鉄」にとっては、半島の丘の上からは米山遠望、それに日本海に沿った海浜を行くSL列車と共に俯瞰できる撮影ポイントとしても良く知られていた。
話が少し戻るが、確か「こうもり」は農作物を荒らす小動物を捕食してくれる有益動物であり、古来から「幸福」をもたらす生き物として地元では親しまれて来たという。ちなみに柏崎地方で産出する石油を採掘しる日本石油(株)の創立式場へ1頭の「こうもり」が迷い込んできたことから、同社のトレードマーフに「こうもり」をデザインしたロゴ(商標)が採用されたと伝えられる。私も長岡の大学に学んでいた頃に、このマーフを付けたタンクローリーが長岡近郊の小規模な石油井を巡って採取した原油を集荷していた姿を見かけた者であった。私も、この幸福の「こうもり」にあやかって、すかさずこの撮影ポイントから俯瞰撮影に取り組んだのであった。
このトンネルを抜ければ鯨波海水浴場ととなり、米山海岸も終わりに近ずいた。
末尾に米山について少し述べておこう。 都のった関西から日本海癌に沿うように北上する北陸道+北国街道は米山海岸を避けて米山峠を超えていた。その頂上には奈良時代創建の薬師堂が祭られており、ここは三河(愛知県)の鳳来寺薬と、日向(
きゅうが、宮崎県)の法華嶽薬師と並んで日本三大薬師として信仰を集めていることで全国に名を知られていた。
この美しい姿を見せる米山は長い間“死火山”とされていたが、昭和の初めに山そのものは海底から隆起したものであることがわかり,火山ではないことが明らかになった。この360度の展望の優れた米山の頂には地形図の制作を担当していた陸軍参謀本部の一等三角点が設けられ地図制作に貢献していた。昔はこの山を境に西を上越後,淑を下越後と呼んでいた.江戸時代に北陸道が北国街道として再整備された時,米山の龍を越える米山峠の西側には鉢崎堰が設置され、出雲崎や佐渡鳥に向かう旅客を取り締まっていたと云う。
・羽越本線 笹川流れ
昭和43年頃からのこと、新潟市内野の実家を夜明け前に出発して、ひたすら国道7号を北上し、古い城下町の村上から海岸沿いの狭い砂利道の主要地方道 村上〜温海線(1975年(昭和50年に国道345号線へ昇格)に入った。この浜道理の道は昭和40年になってやっと軽自動車さなんとか通り抜けられるようになったと云う難路の極みであった。やがて羽越本線と並走するようになり、村上市北部の漁村 桑川にたどりついた。
前に笹川流れの潮流を見ながら、断崖絶壁との間にある平地を漁師集落と狭い県道と羽越本線が並んで走っている辺りを過ぎると、1kmも続く白い砂浜が広がっていて、その眼前には、これまでよりひときわ巨大な岩山が、真っ黒な影となって迫ってきた。これは正に海岸に天を突く蓬莱山(ほうらいさん)と名付けられた巨岩であった。地形図を見ると頂上に三角点があって標高88mよ表記されたれっきとした山であった。この名前は古代中国の伝説にある、不老不死の仙人の住まう蓬莱山に形が似ていることから名付けられたと云う。その半島状に海岸線に突き出した岩山と、本土側の葡萄(ぶどう)山塊の山裾との鞍部を羽越本線が二つの連続する.蓬莱山トンネルで貫いていた。これらの風光を一枚の写真に収めようとして俯瞰(ふかん)撮影を試みることにして、線路脇で山を削って出来た格好の高い擁壁を見付けた。これはかなり垂直に近い角度で高くせり上げられているコンクリート擁壁(ようへき)であって、その縁をよじ登って頂上に生えていた松の幹に体をロープで結んでから、手持ちのコニカプレスで撮ったのであった。今ではこれほど高い一枚の擁壁を作ることは極めて希れあって、それは作業員の転落時の危険軽減などのために一定の間隔ごとに犬走という水平部分を設けるようになっており、この高過ぎる擁壁は貴重な土木遺産となっているようだ。この撮影行は何回か繰り返して試みた覚えがあり、やっと選び撮った写真がこの一枚である。
この羽越国境(山形と新潟の県境)の日本海岸は葡萄(ぶどう)山系が海に迫っており、鳥越山から狐崎までの全長11qは岩礁の荒々しい海岸と白い砂浜が交互に続き変化に富んでおり、それに多くの岩礁が海中に続いていたから、海も陸も交通の難所が続いていたのであった。ここは津島暖流の潮流が岩礁の多い海岸近くを しぶきをあげて盛り上がるように北流している所で、この海に面している集落 笹川の名に因んで「笹川流れ」と呼ばれており、日本海への落日、透明度の高い澄み切った碧い海と白砂のコントラスト、それにどっしりとした莱山を初めとする奇岩などの景勝を合わせて昭和4年に国の名勝天然記念物となり、国定公園となっている地域なのである。この地域を羽越本線ならば、越後早川駅の直ぐ北にある馬下集落から海岸風景が良くなり、桑川駅→今川信号場(1987年に駅に昇格)、そして越後寒川駅の南にある脇川集落で海岸風景は終わるのだが、これを街道筋の集落で云うならは、馬下〜桑川〜笹川〜板貝〜今川〜脇川と云うことになる。こんな狭い地域に“川”の付いた地名が七箇所も現れて来る異常さには驚かされる。
かて、昔から越後(新潟県)と出葉(山形県)とを結ん道筋には村上城下と鶴ヶ岡城下を結んでいた出羽街道が知らけていて、参勤交代には利用されていない街道ではあったが、古くから軍用道として使われ、江戸後期は出羽三山への参拝者や物資の流通、1古い温泉で鶴岡の奥座敷と言われた
湯田川温泉への道として賑わったと云う。
この越後と出羽との国境の越後側には朝日飯豊(いいで)連峰から分かれた葡萄(ぶどう)山塊(主峰は 葡萄山:標高 795m)が日本海に迫っていたから、その葡萄山塊の東に位置する鞍部の葡萄峠の山越えの難所を通り抜けなければならなかった。この本堂とは別に、出羽街道浜通りと呼ばれる道筋も古くから存在していた。村上城下を経て日本海岸沿いを北上して出羽国との国境「鼠ヶ関(ねずがせき)る至る路であった。その昔、源頼朝に追われて陸奥(むつ)へ北上する義経一行もこの道筋を通ったこされている。ここの荒れた波に侵食された岩肌、多数の奇岩が並ぶ海岸の桑川集落から笹川、そして板貝までの2kmは最も険しい岩礁で「笹川流れ」の中心でアり、その昔、ここは人が歩いて通ることも困難な「難所」として知られており、山をよじ登って越える険しい板貝峠を抜けるのか、または渡し舟を使わなければならなかったことが物語っている。だからこの道は訪れる旅人は少なく、道は街道と云うよりは、浜と浜を、集落と集落を、細い糸のように繋いだ生活道路としての役割が大きかったのだろう。今も部落の中をジグザクに通る狭い道や、岩礁の海岸線を迂回する山の峠やトンネルを抜ける道、断崖を渡る「へつりの渡し」などの古道の痕が残っているのだった。 この羽越本線の開通により葡萄峠を越える出は街道の寂れ方も云うまでもないが、どちらの道筋を選んでも、決して楽な道筋では無かったと想うのだが。もしも芭蕉が“奥の細道”の路筋に「笹川流れ」を通る浜街道を選んだら、どんな名句が残されたのであろうか。
〈記事 終了〉「」」
・ご参考:この紀行文の基となるHPがあります。ここには多数の写真が掲載されております。
ご覧頂ければ幸いです。
タイトルとアドレスは下記の二件です。
1)鉄道写真:米山海岸俯瞰(ふかん)・信越本線/米山〜鯨波
http://www5.plala.or.jp/stmlo9600/sl/sl345.html
2)鉄道写真:「笹川流れ」俯瞰・羽越本線/今川信号場-越後寒川 間
http://www5.plala.or.jp/stmlo9600/sl/sl013.html
〈編集とアップロード〉
2017.6.10.制作。
写真は雑誌掲載の中から厳選4枚を掲示しました。