自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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403.  ふるさと「新潟」のC56  ・越後線(関屋〜白山9)など。

〈0001:bP60324:関屋-白山間、181レ:昭和43年7月〉

〈撮影メモ〉
柏崎からやってきた貨物列車は新潟の二つ手前の関屋駅で入れ替えを行った後、関屋駅を出て右手の工場地帯を抜けると緩やかなS字カーブを描く。やがて路面電車の走る国道をオーバークロスして信濃川左岸を埋め立てた地域を信濃川鉄橋に向かって行った。昔の越後鉄道は関屋駅からそのまま直進して終着駅の白山駅に向かっていたが、後に造られた貨物線は大きなSカーブを描くはいせんとなったのである。

〈0002:bP40733:信濃川分水鉄橋、寺泊−分水 間〉

〈撮影メモ〉
いささか、撮影場所に自信がありません、間違っているかも知れません。

〈0003:aF〉
現在制作中です。

【35o縦置きセンタリングあり】
〈000x:縦おq〉


〈000x:〉



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〈紀行文〉
  このサイトでは、小学5年生の時から疎開で暮らし始めた新潟市での記憶をたどりながら、長い鉄橋で新潟市内を東西に結んでいた貨物線(信越本線支線 新潟−関屋間)で活躍するC56の姿を懐古してみました。
 私の郷里の新潟県に鉄道が開業したのは意外に早い1886年(明治19年)のことで、官設鉄道の直江津線の直江津-関山間であった。それは信越本線の前身である官設鉄道の「直江津線」が直江津港を起点に内陸の長野県の上田方面を目指して前年にに着工したからであった。これは、明治政府が進めていた東京と神戸を結ぶ幹線鉄道を長野県を経由する「中山道ルート」で建設することが決定し、その建設用の資材を関西から日本海経由で内陸の建設現場に運び込むための鉄道の敷設を先行していたからである。
ところが、この直江津線の建設が長野県内へと進み、また中山道幹線も日本鉄道の高崎から碓氷峠(うすいとうげ)を目指して着工していたのにもかかわらず、この中山道幹線鉄道計画が当時の技術的な制約と工費の増大化などが判明したことから中止となり、幹線鉄道は東海道ルートへ建設することに変更されてしまった。そのため直江津線は主な目的を失ってしまったが、地元の強い要請もあったことからか、着工していた中山道幹線の工事も牽く継いで直江津線は順次延伸した。そして、明治26年(1893年)には碓氷峠(うすいとうげ)をアプト式鉄道で乗り越えて高崎に達して、東京(上の)への直通列車が走るようになったからである。
当時の政府では、陸軍の歩兵第16連隊が駐屯している新発田までの鉄道の敷設を軍からも要請されていたから、直江津線を新潟・新発田へ延長する計画であった。しかし、当時政府の財政が困窮しており、一向にに建設に取り掛かれないでいたのだった。
やがて、明治25年に公布された国が建設すべき鉄道路線を規定した鉄道敷設法には東京と新潟を結ぶ鉄道「北越線」として『新潟県下直江津、または群馬県下前橋、もしくは長野県下豊野ヨリ新潟県下新潟、および新発田ニ至ル鐵道』が規定された。その後の議論の末に
直江津線の豊野から分かれて信濃川に沿って北上し、飯山、十日町、長岡、三条を経て新潟に至る案、それと高崎から分かれて前橋、三国峠を越えて長岡、三条を経て新潟に至る上越線案が否定されて、直江津江津線延長案が採択された。このルートは直江津から日本海岸に沿って北上し柏崎から内陸に向かい、塚山峠を越えて信濃川を渡り長岡へ、三条、新津を経て新潟に至る計画であった。それは信濃川河口の左岸に発展していた新潟市街に直線的にアプローチするには地盤の悪い低湿地帯の広がる蒲原平野を縦断しなければならないので山沿いの信濃川右岸を迂回するルートを選んでいたのである。
しかし、地元からの誘致運動にもかかわらず予定線から建設線への格上げがなかなか実現しなかった。
そこで、地元の実業家である久須美し秀三郎らを中心とする新潟県内の有志は中央野資本家である渋沢栄一に東京の資本家を呼び込むことを依頼し、渋沢を発起人代表として1895年(明治28年)に北越鉄道(株)を設立した。そして献血ルートは官設鉄道の計画に沿ったものであったが、この終着点は濃川を渡って新潟市内に設けることは資金的に難しかったことで、信濃河河口右岸の沼垂(ぬったり)の市街とする計画となった。
そして、同年の12月には直江津 - 長岡 - 新津 - 沼垂、新津−新発田間の98哩余の免許を取得した。また続いて、翌年には柏崎 - 出雲崎 - 新潟 - 沼垂の間の支線建設免許の申請も行っていた。
そして早くも1896年(明治29年)3月になおえつと沼垂の両端から起工され、順次開業を続け1898年(明治31年)12月には直江津- 沼垂 間が全通している。
 この北越鉄道の新潟全通に関しては、その起点をどこに置くかで開業後も騒動が続くと云う事態が続いた。
先ず、新潟側から1896年(明治29年)に着工し建設は進められたが、起点を予定通りの沼垂にして長岡方面への延伸が急務とする東京資本と、新潟市街に至近となる萬代橋畔に駅を設けたい新潟出身重役との対立が収まらなかった。その後も沼垂駅の開業には対岸の新潟市街の人々からの反感が強かった。そして、完成した沼垂機関庫と貨物庫が爆破され、1897年の開業は4日遅れる事態にまでに発展した。そして7年後の明治37年になって、万代橋の近くまで鉄道を延伸して新潟駅を設けて長年の騒動は落着した。
一方、北越鉄道が柏崎から内陸部に入り長岡方面に向かうことになったので、柏崎から日本海に沿った出雲崎から新潟に掛けての地域は鉄道から見放されてしまった。実は北越鉄道でも柏崎から出雲崎を経て新潟駅に至る支線を予定してはいたが、そのための資金待ちの状態であった。やがて北越鉄道が国営化されて信越本線となってからも、刈羽・三島・西蒲原の各郡の人々から我が村にも鉄道をという声が強くなって、国鉄への鉄道建設の陳情が行なわれたが実現には至らずに時が過ぎていた。明治のすえになって、かって日本石油、北越鉄道の創設にかかわった久須美秀三郎が息子東馬とともに越後鉄道敷設に乗り出した。そして、1908年に仮免状が下付されたが、日露戦争後の経済情勢から安田財閥の安田善次郎らの支援を受け、1911年に越後鉄道会社の設立総会が開催された。この越後鉄道に対しては、久須美家だけでなく、新発田出身の大倉財閥を成した大倉喜八郎、前島密、山口達太郎、内藤久寛、白勢春三、鍵富三作ら有力者、さらに第四銀行、六十九銀行、長岡銀行、新潟商業銀行、鍵三銀行、柏崎銀行などの経営陣、日本石油、宝田石油の役員など石油関係者が多く名を連ねたと云う。
この鉄道は、起点を柏崎駅として、日本かいに沿って北上し出雲崎、寺泊の先で信濃川分水に全長
 572mの橋梁を架けて渡り、弥彦山脈の東すそを北上し西吉田を経て新潟へ向かった。本来は信濃川に鉄橋を掛けて新潟駅に連絡する予定であったが、資金のふそくが懸念されることから信濃川左岸を直進して当時の新潟県庁(現在の新潟市役所)の西沢付近に終着駅の白山駅を設けることになった。ここは新潟駅からは川を挟んで離れた距離にあるものの、新潟市街のちゅうおう部の西側に位置していて決して不便な場所ではなかった。

そして越後鉄道は、柏崎から白山までのメインライン、その途中の西吉田で南へ信越本線の東三条駅まで、また北へは越後一宮てある弥彦神社前の弥彦までの参宮線の敷設を計画した。これにより各方面から弥彦神社への参詣人の足の弁を提供すること目指したのであった。そして先ず1912年(大正元年)に白山〜西吉田間(31.2q)が開業し、次の年に柏崎ー白山 間が全通した。また、1916年には参宮線・弥彦‐西吉田間、西吉田から燕へ、さらに1925年に東三条へ、越後長沢へと延びた。
 この終着駅となった白山駅は木造二階建てで、新潟では老舗のレストランである“イタリヤ軒”が出張店を出しており、貨物も取り扱っていたし、競馬の場外馬券売り場もあったなかなか立派な駅でした。私の少年期に住んでいた家は白山駅の西600mの近くにあって、小型のタンク機関車を良く見に出かけたことを覚えています。
白山駅を出て、住宅街の中を西にむかうのですが、この右側には県立新潟商業学校などの多く野学校のある地域であった。やがて新潟市の西の端の関屋地区に入った。この直ぐ左側は信濃川にせっしていて、大川前と呼ばれており、明治29年に新潟硫酸(株)の工場が立地し、続いて数社の製油所が建設されると云う工業地帯へと発展していた。
のすぐ北側を越後鉄道が通過するようになり、そこに関や駅が設けられた。今まで物流を舟運に頼っていた各工場では関屋駅を通じての貨物の利用を始めたようであった。
さて、開業した越後鉄道は経営難に苦しみ、政治工作によってたびたび国有化を要請したが容易に実現しなかった。しかし努力(?)の結果、ン国会の決議を経て1927年10月に国有化され、国営鉄道の越後線、弥彦線となった。
国有化された越後線は、まだ白山から信濃川を渡って新潟駅に乗り入れら出来ていなかった。戦時中の1943年(昭和18年)に信濃川に架橋して新潟駅〜関屋駅間4.6qを結ぶ貨物線(信越本線貨物支線)が開通して、関屋駅での鉄道貨物の便利性は大いに高まった。昭和40年代の堰や駅から分かれていた専用線には
新潟硫酸 、歴世鉱油、昭和石油、貝印石油販売、信越石油などが存在していると云う賑やかさであった。この新潟〜関屋に旅客列車が走るのは戦後の昭和26年(1951年)6月のことである。さらにその後、貨物線上に白山駅を移転し、関屋〜白山(旧)間を廃止した。これにより新潟までが越後線となった。
廃線跡は関屋付近は一部草地となって残っている。
私が撮っていた昭和42年頃の東新潟機関区にはC56が5両在籍していて越後線の
貨物の牽引をやっていた。(93 99 133 141 145の5輌)
 最後に、私財を投げうって北越鉄道、越後鉄道の設立に尽力して『北越鉄道・越後鉄道の父』と呼ばれる久須美秀三郎(1850−1928)の来歴に触れておこう。旧家久須美家はづっと古くからの三島郡和島の有力者であった。この人は27代目の当主であり、柏崎県の第二大区副大区長を務めた。32才(明治15年、1882年)の頃から石油事業に力を注ぎ、日本石油の取締役を務め、西山油田噴油後は北越鉄道の設立にも奔走し、48才の頃(明治31年)に北越鉄道の取締役として開通に立ち会っています。その後も、越後鉄道の敷設にどりょくし、60才の頃(明治44年)に越後鉄道(株)を創立しています。また、長岡銀行の取締役、越佐新聞社社長などを歴任しており、1902年からは憲政本党の衆議院議員を務めた(当選2回)。その住居に近い越後線の小島谷駅前には久須美秀三郎の胸像が建立されている。