自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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400.  諏訪の平駅での列車交換風景 ・東北本線

〈0001:bO90122:下り貨物到着〉


〈0002:bO90123:DC急行「第2みちのく」通過〉


〈撮影メモ〉
当時の東北本線での優秀列車の中でDC化されていたのはポンネット特急「はつかり」(81系)と、急行「みちのく」の一往復だけであった。うろ覚えの記憶では午前中のような気がするので、上りの「みちのく」の通過ではないだろうか
この付近は複線電化に向けての工事が進められようとしていた。

〈0003:bO90124:下り貨物発車〉


〈0004:bO90133:上り貨物発車〈


〈0005:bO90134:上り急貨「北たから」の追掛け〉


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紀行文〉
  東北本線が東側の北上山地と西側の奥羽山脈に挟まれた北上川、そして馬淵川に沿った低地や谷間をひたすら北上して岩手県を通り抜け、青森県に入った。ここまで北上すると南北の延長 260kmもある北上山地もやっと尽きて、その北東はに名久井(なくい)山地が現れた。ここには古くから霊峰山として人々に信仰されている名久井岳(なくいだけ、標高 615.4m)が離れてそびえている。その山麓の西側を北流している馬渕川は長かった谷間を抜けて低い丘陵の間を東へ向き尾変えて太平洋に向かっていた。東北本線も馬淵川に沿って岩手/青森の県境を越えて太平洋岸の八戸に向かって三戸の先で第1馬淵川鉄橋を渡って馬渕川に別れを告げて、諏訪平→剣吉→苫米地(とまべち)→尻内と駅を重ねていた。
実は、明治政府は明治5年(1872年)と云う早い時期に、工部省准十等出仕の小野友五郎さん(この人は江戸幕府の海軍操練所で測量術の教授であった)に命じて東京と北海道とを連絡する鉄道建設ルートの調査測量を行わせた。この時には、北上山地と奥羽山脈に挟まれた谷間を抜け出た三戸から陸奥湾に面した野辺地に至る二つのルートが提案されていた。その一つは国道(奥州街道)に沿った内陸ルートで、三戸から三本木(現在の十和田市)を経て三本木原、奥入瀬側の沖積台地を抜けて野辺地に至っていた。他方は太平洋岸の港である八戸・三沢を経由する海沿いルートであって、現在の東北本線と同じ道筋であった。その後、日本鉄道が東北線を建設するに際しては、陸軍から海岸線沿線のルートを避けて、内陸通過するルートを採用するようにとの要請がなされると云う難題に直面した。しかし、最終的に港湾である八戸の近くを経由することで開通した。そこでは海岸に接近を避けるため八戸町の郊外の尻内に駅と機関区を設ける配慮がされていた。
 そのような経緯で東北本線は三戸から馬淵川に沿って諏訪の平駅→剣吉駅と南部町の低い丘陵の間を北上していた。この辺りは南部藩(盛岡藩)の発祥の地であり、その中心であった三戸城跡などの多く野史跡が残っている。この南部氏の居城は、「聖寿寺館(本三戸城)→三戸城(三戸古城)→福岡城(九戸)→盛岡城へと南へ移って行く。
さて、諏訪の平駅は低い丘陵地帯の中にもうけられていて、駅の東側は丘陵を切通して駅の構内をもうけたから、その上からは発着する列車を俯瞰撮影するには誠に都合が良かった。ここは
単式ホーム2面2線と通架線の中線を持つ地上駅であって、1933年(昭和8年)に開設されている。
私の訪れた昭和42年11月頃は盛岡〜青森間の複線電化の1年前である。
当時の直通貨物列車は1000噸牽引の急行貨物列車が多くうんこうされており、優等列車も特急3本、急行8ほんであった。
丁度待ち構えていた時に出あったのは、後補機を従えた下り貨物、重連の上りかもつ、それにDC急行 上り202D「第2みちのく」らしい通過列車の交換風景であった。(列車番号などは散逸してしまった。)
場所を動かずニ撮りツヅケタ5マイヲオ目ニカケマシタ。

撮影:昭和42年(1967年)11月4日。