自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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・西南北海道を巡る
380.  ニセコ連峰をバックに目名峠へ挑む 急行「ニセコ」
-函館本線・めな−上目名 間

〈0003:bP80132:牧場バックに急行 ニセコ 快走、連写1枚目〉


〈0004:bP80133:牧場をバックに急行 ニセコ 快走、連写2枚目〉(寺井さまによる色補正済み)

〈撮影メモ:昭和43年10月27日撮影、カラーネガ〉
この写真は「なめくじ会の鉄道写真館」を主宰されておられる寺井さまに退色した画像の色補正をして頂いたがぞうです。見違えるよぬにスッキリとなりました。ありがとうございます。
 晩秋の北海路の自然は冬を目前にした色に彩られていました。
この20‰の上り勾配の築堤をC62重連に牽引された急行 ニセコ が近ずいて来ました。
背後は広々とした牧草地、左手に北海道独特な畜産農家が見える。

〈0002:bP61225:上目名辺り〉

〈撮影メモ:昭和43年10月27日撮影〉
104レ、急行 ニセコ 、上目名付近。
右奥から左手前に、高い築堤。
両方とも白煙を流している。ヘッドライト点灯。背後は杉林、近い山。この目名の辺りは稲作地帯の集落が開かれた。山間に作られた棚田状に広がる水田は美しい。
ここは目名−上目名間の152キロポスト付近の築堤の辺りで、
この辺りでは爆音を轟かせて上目名の峠に向かう所です。バックはニセコ連山で右から最高峰のニセコアンヌプリ(標高 1308m)、イワオヌプリ(標高 1,116m)です。
注記:画像データの所在:
「国鉄時代、北海道の峠」のホルダーの中の、
・1-05函館目名服部161225.jpg
(「稲穂茶屋」を主宰しておられる服部さまにトリミングをして頂きました。有難うございました。「」

〈0001:bQ21233:急行ニセコ・昆布−蘭越〉

〈撮影メモ:昭和45年7月23日撮影〉
ここの場所をわすれてしまいましたが、次のように結論しました。
C62 3号が前補機らしい。本務機のC62の次に荷物車を連結していますので上り急行ニセコでしょう。
バックの山はニセコアンヌプリで、列車は絶気で下ってきます。
そして、昆布−蘭越間の国道の陸橋の上からの撮影と推定しました。
ここでは、「ナメクジ会の鉄道写真館」を主宰されておられる寺井さまからのご示唆を頂きました。有難うごらいます。


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〈紀行文〉
 昭和43年の秋の“43 10(よんさん とう)”の時刻大改正を過ぎて、盛岡〜青森間の東北本線の無煙化が完成したこともあって、撮影の目標が東北から北海道へと移り、特に函館本線のC62重連牽引の“急行 ニセコ”の走る小樽〜長万部(おしゃまんべ)間の、通称「山線」が注目の的となった。その中でも撮影名所として知られていた目名−上目名 間に位置している『ニセコ連峰をバックにした高原』に狙いを定めた。
そして五万分の一地形図を手に入れて、この高原を横断して来る線路を見下せる地点への、タクシーによる国道5号線からのアプローチを探し当てた。
そして一〇月の下旬になって、格安の運賃であったYS11の飛ぶ羽田−札幌丘珠 の夜行便に乗って出掛けた。その早暁には小樽築港機関区を外側からスナップシテから上りの普通列車に乗り込んだ。
 さて、日本海側の小樽から太平洋岸の長万部へ向かう函館本線は三つの大きな峠を抜けるや山越えの続く“山線”であった。おたるから列車に乗り込んで、やがて稲穂峠を、そして続いて倶知安(くっちゃん)峠を越えると中間の主要駅である倶知安駅に到着した。右手前法に大きく円錐形の
シルエットを描いた羊蹄山(ようていざん、標高 1,898m)をバックに入れかえに励むD51の姿をスナ
ップして、再び上り列車に乗り込んだ。
この先は右手にニセコ連峰の山々を見ながら羊蹄山麓からの湧水を集めた清流で名高い尻別川の谷間を右へ左へと5回も渡りながら下って、下車を予定していた蘭越に到着した。この後の尻別川は支流の目名川を合流して西北へ向きを変えて日本海へ注いでいた。
実際はここで下車してタクシーで撮影地へ向かったのであるのだが、次の峠超えである目名峠までの沿線風景を予め描写しておこう。
この蘭越の市街地を抜けるとニセコ連峰は後ろに移動し、線路は尻別川の谷から離れ、支流の目名川に沿って再び登り始めた。次の目名までの間は防雪林に守られた所が多かったが、目名の集落が近ずくと
視界が広がり高原ラシイ風景に一変した。線路は勾配を維持るるため牧草地の間を高いち築堤を築いて横断していた。やがて丘陵地帯に入って行く。右前方に幌内山 (標高 842m)が、左手後ろに観音山(標高 684m)などが迫って来た谷間に入り、最上流の開拓集落の上目名となる。ここには上目名駅があった。ここは1904年(明治37年に函館本線が全通してから9年後の1913年(大正2年)に、駅間距離が15.4kmある熱郛駅と目名駅の間に列車交換が可能な駅として開業した。近くに開拓集落の発展が期待されていたようだ。そして、1935年(昭和10年)に上流の大玖山に金・銀の黒鉱の鉱床が発見れ、続いて大玖鉱山として日産最大40トンの金銀銅を含んだ鉱石を採掘し、旧上目名駅から岩内線の国富駅へ積み出されて友和町の国富製錬所で製錬されていた。
ここは函館山線での唯一、島式ホームの駅であった。そして、下り線の外側、駅舎との間に側線を1線があって、駅舎横の長万部側に上屋の無い小さな貨物ホームがあって、昭和21年頃まで鉱石の積み出しに忙しかったと云う。それに最近まで小樽との間に折り返す旅客列車が設定されていたと云うのも珍しい。
ここを過ぎると直ぐにサミットである目名峠(標高 214m)直下を貫く全長 595mの第二白井川トンネルに吸い込まれた。この先にはもう一つのトンネルヲ抜けるとS字カーブを描いた急勾配の下りとなり、“下りの列車”を狙うには好撮影地点が現れる。ここへは二つの曲がった長いトンネルヲ通過しなければ到達できない撮影難所でもあった。
 さて、話を元に戻そう。蘭越は大きな町なので得日前にはタクシーが数代客待ちをしていた。私の出会ったドライバーさんは前にもSL撮影のお客を載せた経験があるとのことで、地図を一瞥しただけで直ちに出発したのには驚いた。聞くところによると、私が狙ったポイントは、一般に云われている撮影名所の“上目名の大カーブ”の前哨戦に当たる場所のようであった。しかし、私は初志を貫くことにして、カラーフイルムを積めたアサペンを手持ちで狙うことに決めた。撮影ポイントを定めた頃に、タクシーでやって来た撮影者が一人現れた。私のペレー帽に付けていた「鷲羽バッチ」を目ざとく見つけてホンダの関係者かと尋ねてきた。このマークはホンダのオートバイに付けられたエンブレムのデザインであったからである。
このかたは、クルマの車輪の本体を成しているコイルを製造している大阪の油の工業のしゃちょうだそうで、8粍ムービーで鉄道を撮っていることで関西では知られた存在であることが後に判って奇縁に驚いた。じつは、この社が製造しているホイルは私の勤める工場へも納入されてクルマに装着されていたからであった。
撮影後に、時間をおおしみながらいささかの蒸気機関車談義をしたのち、分かれてそれぞれの次の目的地へ向かった。私は上目名駅を偵察へと歩き始めた。
この紀行文を執筆しているときに、湯野さまの動性が急に知りたくなってWEBを検索していた所、次の記事を見つけた。
「懐かしの鉄道写真 油野 岩雄 遺作展「」
場所:戎橋画廊(大阪市道頓堀南詰め)、2016年11月開催。
すでに数年前に亡くなられていたとのことでした。ご冥福をお祈り致します。
 また、このHPの制作に当たり、写真の撮影場所が目名−上目名 間であることを、“なめくじ会の鉄道写真館”を主宰されておられる寺井洋一さまに再確認をして頂きました。『バックの右端にニセコアンヌプリが見えています。これが見えるところは蘭越〜目名〜上目名です。(昆布間でも見えますがこれほど確かにとれるでしょうか……』。厚く御礼申し上げます。