自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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・南九州の日豊本線に沿って
377.  “重岡宗太郎とは誰でしょうか?” ・重岡-宗太郎-市棚

〈0001:bP60812:重岡駅の旅客列車・連写 T:到着〉

〈撮影メモ:昭和43年9月17日撮影〉
黒い煙を後ろへ流しながら重岡駅に到着する1528客レを左のホームから撮っている。中線はなかった。
山奥の秘境駅のホームに人があふれていた。林間学校での催しがあったのだろうか。

〈0002:bP60813:連写 A:発車〉

〈撮影メモ:昭和43年9月17日撮影〉
C57 65号の煙は白煙に変って、安全弁から蒸気が噴き出している。間もなくサミットのあるトンネルに突入する。

〈0003.bP60814:連写 V :追いかけ〉

〈撮影メモ〉
追いかけ。
大分機関区のカマだろうか、宮崎区のカマの美しさとは段違いなのにはあきれた。未だ昔懐かしい腕木式信号機が活躍していた。

〈0004:bP60826:市棚付近の鉄橋の朝〉

〈撮影メモ:昭和43年9月21日撮影〉
早朝に延岡市内をす道理して宗太郎峠に向かう途中で撮ったスナップです。
市棚駅の手前なので北側の支流である小川に架かる鉄橋だと思うのだが。まだ山間の田には暗いのに、遠くの山は陽光が当たっているようだ。

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〈紀行文〉
 昭和43年の9月、週末の二日目は再び大分県との県境の「宗太郎越え」のサミッとへの撮影行を敢行したので、その盛夏をお目に掛けたい。
この日豊本線は九州山地を国道10号線が通じている標高 266mの宗太郎峠の下を第1大原トンネル(全長 521M)で越えており、そのサミットはトンネルを南へ抜けた所に設けられた重岡駅で標高は海抜 219.416mであった。この峠へは大分側から 久留須川沿いに直川から登って、分水嶺の尾根の下を第1大原トンネルで抜け、ここからは太平洋の日向灘に注いでいる五ヶ瀬川の支流である鐙(あぶみ)川に沿って宗太郎、市棚へと下っていた。
さて、佐伯からの峠の登りが始まるのは直川駅からでサミットの重岡駅、宗太郎駅、そして県境を通過して市棚駅に至る上り下りを合わせた約25qの区間が“宗太郎越え”と呼ばれていた。この間は20‰(1000分の20)が連続した急勾配は延々と17qもあり、その間に掘られたトンネルの数は大小合わせて37個所にもなるからものすごい。
その内訳は、直川駅からサミットの重岡駅までの間に11個所、重岡駅から宗太郎駅までの間に14個所、さらに宗太郎駅から市棚駅までの間に12か所であったが、県境にはトンネルはなかったのが妙であった。
さて、ここで前日の「宗太郎越えのアプローチ」の折り返し点である第2鐙川鉄橋の下をくぐった国道10号線をさらに北上することとしよう。宮崎県最北に位置する市棚駅からゆるい上り坂を5qほど行く途中で大分・宮崎県境を通過する。近くには黒岩山(標高 
548m)が迫っていた。この先で時折、短いトンネルが現れて、国道は日豊本線から離れて鐙川の右岸へ渡りと、対岸には山腹にへばりつくような宗太郎桟橋が眺められた。やがて再び鐙川の左岸に戻り北上を続ける。間もなく、右手に宗太郎駅のある宗太郎集落へ入る右折の細道の存在を示す看板をみつけてから、さらに北上して小さなトンネルをいくつか抜けながら約6q先に重岡駅がヒダリテに見えて来ると峠のサミットは近い。その少し先で大分県道39号小野市重岡線が左へ分岐し日豊本線の切り通しの上を大原橋と呼ばれた跨線橋で渡っていた。この道は現在は国道326号線と約10qの距離で連絡する県道として重宝されていると云う。この橋の上からは佐伯方には第1大原トンネルの坑門(トータル)が、延岡方では重岡駅へ向かうカーブした深い切り通しが眺められた。
やがて標高 266mのサミットには
ドライブインがあり、、それにバス停もあった。
このさきは勾配のきつい下り坂が長く続いてはいるが、散在する民家が見られて、やがて直川駅となったので、引き返すことにした。
そこで先ず「宗太郎越え」の直川〜市棚間の建設史について述べて、この付近の地誌の理解を深めておこう。
直川からは20‰の勾配が続く区間であって、分水嶺となる第1大原トンネル(全長 521M)の掘削には初めて削岩機や軽便機関車などが投入された。掘削は延岡方からも同時位行われ、逆勾配のため廃水や切削屑の搬出に苦労が強いられたようだ。
次の区間は重岡駅から南へ宗太郎信号所までの5kmであって、山のけわしい区間には12個所のトンネルと、二か所の鉄橋を架ける工事が予定されていたが、資材を運んだ国道は狭い県境の山奥であったから苦難の連続であった。この工事が始まった頃の県境に近い宗太郎集落は5軒、14人が暮らしを営んでおり、国道沿いには飲食と宿屋を兼ねた家があった。ここの主人の河野角太郎さんの語る草が記録されていた。
『この宗太郎村の始まりは、その昔に九州へ逃げ込んだ平家の落人(おちうど)の洲本宗太郎(すもと そうたろう)と云う人が住みついたことからだという。その後の1594年(文禄3年)に豊臣秀吉の配下の中川秀成が豊後国(現在の大分県)の大野郡・直入郡などを領する岡城に(今の竹田氏)に封じられて成立した岡藩から江戸時代の元禄6年(1693年)に、この付近の約3里四方の官山の管理をする番人を命じられたのが洲本宗太郎の子孫であったとの記録が残っている。たしかに、明治維新まで続いた岡藩領は廃藩置県で「岡県」となり、やがて「大分県」にがっぺいされてしまうのだが、現在でも宗太郎峠の南一帯が大分県に属しているのは、この辺りが岡藩の領地で宗太郎村の人々が山林を管理していたことを物語っている。その証拠の一つにこの集落を起点に宮崎県営の「赤松林用軌道(本線は北側起点、軌間 610粍)の別線が北へ延びていたと記す資料が存在しているからである。
 次に最大の難工事の区間の話題に入る。この宗太郎信号場から南へ7qの線路は鎧川や小川に沿って山腹を走っており、トンネルは6カ所、橋は3カ所が連続し、崖際を切り開き、渓谷を渡る険しい区間である。大正10年後半の頃は延岡から市棚まで既に開業していたから、工事用機関車や起重機などを延岡方から導入して工事の促進をはかった。この辺りの地質は全体的に秩父古生層に属しており、変成作用を受けた堆積岩が主体で、所々に火成岩を挟んでいて地質的に不安定な個所があった。これらはほぼトンネル掘削に適した硬さのものであったが、一部風化した粘土を含んでいたので支持力の無い区域があり施工に困難を伴った。特に第四宗太郎トンネルは延岡方坑口付近の地山の支持力が無く、掘削中にトンネル上の地表面が幾度となく崩落したことがあったと云う。現在、この付近は鐙川を挟んで右岸を国道が左岸を鉄道が並行して走っているのだが、当時は、国道も鉄道と同じ左岸を走っていて、この土砂崩れの度に不通になったのだった。さらに施工中のトンネルにも偏圧がかかり危険な状態であった。この対策として、国道ととんねるとの間に高大な土留擁壁を築造し、トンネル内部は特殊な覆工を施すことになり、大変な苦労の末に完成させていたと云う。
所が、大正12年の春先の4月29日にトンネル山腹が崩壊と云う大事故が起こった。完成間近な第四宗太郎トンネルの延岡方坑門付近で山腹が大崩壊したのである。トンネルの内部は延岡方坑門から約40mが圧壊、土留擁壁も約30mにわたって倒壊し、国道が55m程埋没した出来事である。検討の末に、延長約170mの第四宗太郎トンネルは放棄することになり、新しい線路は第三宗太郎トンネルからすぐ右に曲がって川寄りを迂回し、新に別の第四宗太郎トンネル(全長97m)を掘り、山腹の崩壊した部分は、トンネル工事用の足場を兼ねて鐙川に張り出した宗太郎桟橋(延長約150m)を架けて通ることになった。このため工期は約6ヶ月延びることになった。これには多数のコンクリート橋脚を設置して、起重機で桁を架けて工事が進められた。不幸なことに、この頃に関東大震災が起こっている。工事中に撮られた写真のキャプションによると、この宗太郎桟橋はスパン長さ70フイート6連40フイート1連の鋼板桁規模の橋梁であると書かれていると云う。そして、大正12年の冬が迫ってくる頃に工事が竣工して、新鋭の8620型機関車が4両の客車を引いて走り始めた。
ところで宗太郎越えの建設工費は、物価比換算すると約19億円/kmとなると云うから、これは宮崎ー延岡 間が7億円/kmで済んでいることからも難工事の程が理解できよう。この峠越えはルート設定から施工までが難工事だったことは確かだが、それにも増して、ここを運行する乗務員の人たちに加えて、ここを旅する乗客の人々も、どんなにかSLの煤煙に苦しめられたことだろうか。
 さて、ここから「宗太郎越え」訪問の話題に入ろう。日豊本線のサミットは重岡駅と直ぐ北にある第1大原トンネルとの間にあるようだ。重岡駅のホームに建てられている標柱には「海抜 219.416m」とあった。この駅は、駅舎に接した下り用の単式ホーム1面1線と島式ホーム1面2線の合計2面3線を有していて、相互の連絡には跨線橋が設けられていた。それに長いヤード、貨物用のホームまで設けられていた。また、かつては当駅発着の列車も設定されていたことがあったようだ。私が訪ねた頃、重岡の集落は十数軒くらいだったが、郵便局もあり、駅前からは佐伯や延岡からのバスの発着があったようで、意外に人々の交流が多かったようである。
駅に付いてみると、ホームには意外なほどの人々であふれていた。秋の週末の林間学校で催しでも開かれていたのであろうか。
やばて勾配を登って上りの旅客列車がC57に牽かれて到着した。そこで、旅客列車が第1大原トンネルに向かって遠ざかるまで連写を試みた。
そして、次の宗太郎駅の偵察に向かおうと国道に出て山の間を縫うように下りつづけた。この辺りでは国道の右ての下を鐙側が流れているようであった。やっと左手に宗太郎駅への入り口をしめした看板がひっそりと立っているのを見つけて、すかさず左折した。すぐに集落に入ったが駅は見当たらなかった。よくよく考えて見ると、日豊混戦は高い所を走っているので、小道はヘアーピン カーブを描いた急坂を登った末に、更に石段が続いていたのであった。
 ここは鐡道開通の大正12年(1923年)12月15日に信号場として列車交換のために開設されたもので、旅客扱いはなかった。その当時の集落は、昔からの5軒(14〜5人の家族)にくわえて、新設の信号場の駅長以下4人の鉄道員の住む鉄道官舎だけであった。所が、地域からは林業に従事する人々の客扱いの要望が多く、大分県重岡村と宮崎県北川村は鉄道省に請願を続けていた。当時の駅長も尽力もあって、請願者が乗降場設備工事費900円(重岡村850円、北川村50円)を負担することで、旅客乗降を許可されて、そして昭和7年12月6日から旅客営業を開始した。この日は、国分〜都城の霧島山麓の短絡線が開通して現在の日豊本線が形成された記念すべき日でもあったと云う。その後の信号場から駅に昇格したのは昭和22年3月1日であった。
私が訪ねた頃は、2面2線の相対式ホームで、その長さは63m、それに跨線橋も設けられていた。
また、当時流行していた「秘境駅らんきんぐ」によるろ、
宗太郎駅は44位であった。
その特記事項には、人家7〜8軒/山深い /国道近し。
列車交換駅 / 停車する列車は日刊 3往復。
平均乗車人員 0.3人
とあった。
典拠:「秘境駅に行こう!」のリンク
http://hp1.cyberstation.ne.jp/hikyoueki/
〈典拠終わり〉
 そして、この日は列車の来るのを待ちきれずに隣の市棚駅へ向かってしまった。
 ろころで、この宗太郎越えの南側の川筋は複雑である。分水嶺からの鐙川が、小川にそそぎ、段々と川幅も広くなり、北川駅に近くなる。やがて小川は三国峠を源とする北川に合流し、延岡市内に入ってから五ヶ瀬川に注いでいた。この五ヶ瀬川は上流に高千穂峡谷を持っていることで知られ、日向灘の太平洋に注ぐ直前で北側を合流していた。
 その後に、宗太郎越えのハイライトは「宗太郎桟橋」であることを教えてもらったが、「あとのまつり」となってしまった。
そこで、延岡市在住の山下さんの提供しているHP:「日豊本線の四季:光るを浴びる
宗太郎桟橋」の写真をリンクさせてもらうことにした。
次のリンクを開けば、SLではないが電化後の素晴らしい鉄道写真を鑑賞することができるのは有り難い。
「日豊本線の四季 宗太郎桟橋」  
http://www.wainet.ne.jp/~yama-hkn/nippou15.htm
宗太郎桟橋  光を浴びる桟橋 
撮影:2004年11月 山下さん(延岡市)
そのギャプションには、
『鐙川に沿って長く続く宗太郎桟橋に日が差し込む時間は、晴れた日でも僅かな時間です。山と山の間の狭い隙間を走り抜ける列車に、この桟橋を作った人たちの当時の苦労が偲ばれます。』とあった。

〈紀行文終わり〉