自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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・「南九州の日豊本線に沿って」
373.  夜明けの日向路  A  :「彩雲」の小丸川橋梁 ・高鍋

〈0001:bU43-2-28:朝焼けの小丸川橋梁〉




〈撮影メモ:〉
冬の季節の2月ごろ、午前 7:00高鍋駅発上り貨物列車です。
この朝は、洋上に雲がまったくなく、日の出直前に空が紅に染まった一瞬である。
古いがぞうなので、フイルム発見次第改めて画像を制作致し予定です。

〈0002:bP60644:1569レ下り旅客列〉




〈撮影メモ:昭和43年9月14〜17日〉
これは35粍カラー ねが フイルムです。1569レ下り旅客列車〉
日の出の時刻が午前6時ころだったので、下りの列車しかなかった。
「彩雲」にめくりあった唯一のショットです。
この4日間は仕事で宮崎県の佐土原町へ出かけてきていた。その内の2晩は高鍋駅前旅館に泊まって、朝焼けの撮影を試みた。
夜明けの時刻には上りの列車がなかった。その時に雲間に陽光があたって“彩雲”が洋上に出現した。その彩は刻々と変化して消えて行ってしまった。
しかし、その後の何回にもわたる挑戦にもかかわらず再び“彩雲”にお目に掛かることは出来なかった。
そこで、止む終えず失敗作を展示している次第です。

◆これ以後3枚の写真は、カラースライドをモノクロームで撮影しなおした画像です。
近日中にカラースラ画像に取り換える予定にしています。申し訳ありません。◆


〈0003:bR10616:〉



〈撮影メモ:撮影日時不明〉
これは手前の水面はすくなく、雲のある夜明けの空が多くはいっている。
背景の空は日の出か。
空に雲が輝いている。
土手は暗い。逆光か。

〈0004:bR10615:〉



〈撮影メモ:撮影日時不明〉
右足元は川岸の草地が少し写っている。
5本の橋脚が観えている。
左側3本までは中洲で草ち。
右は水面だけ。二本目に右から貨物が黒い煙をなびかせている。
背景は雲が浮かんでいる。
水面が広い。
背景は空。水面のギラギラはない。制水杭もみえない。空の雲は余り入っていない。

〈0005bR10624:〉


〈0006:bX63−3−46:上野モノクロ写真の原版であるカラースライドです。〉


〈撮影メモ:撮影日時不明〉
右から橋梁はPC桁、橋脚7本。
右から黒い煙をなびかせた貨物列車が行く。
水面は斑模様に、ギラギラと光っている。
手前の広い水面の光の模様は魅惑的だ。
遠くのバックの空には黒い雲が三つ浮かんでいる。
 ここの一枚目のモノクロームは次に掲げたカラースライドを映写している画像をモノクローム フイルムでさつえいしたものです。
モノクロームの方が印象がつよいようです。
カラースライドは色彩の退色が著しいようです。


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〈紀行文〉
 ここではカラーで捉えた小丸川橋梁での夜明けの情景を集めました。
後半の3枚は近いうちにカラースライドに差し替えるよていでしたが、色の退色がいちじるしいので、最後の一枚だけ併載しました。
 最初は水面に陽光が反射するギラギラをぬらっていたのですが、
次第に“彩雲”を狙うようになったのですが、幸運には恵まれませんでした。
 ここから、この幅広い小丸川の流域についての風物について記したいと存じます。
 夜明けの遅い冬の午前7時、高鍋駅を発車した上り貨物列車が橋脚を34本も並べた長い小丸川鉄橋を渡る。朝焼けに染まった広々とした川面には投網漁をする人がいたこともあった。
 さて、この小丸川は全長 73qもある大河で、北の熊本県との県境に近い椎葉村の九州山地の三方岳(標高 1476m)の北麓の木藪谷の豊かな森林地帯に源を発して東に流れ下り宮崎平野北部の木城町を流れ下っている。ここは九州の関ヶ原と云われる戦国時代初期の古戦場跡のある地であった。それは島津軍と大友軍が激突した「高城川の戦い(耳川の戦い)」であり、地元の島津軍か大勝して日向を守り抜いた戦いでもあった。それに、大正・昭和の文豪 武者小路実篤(むしゃのこうじさねあつ)がひらいた「日向かう 新しき村」があることでも有名である。これは大正7年(1918年)に、路実篤とその同志によって、 「お互いが人間らしく生き、むつみ合い、そしてお互いの個性を尊重し、他人を傷つけることなく、しかも天命を全うすることができる」とするユートピア(
理想郷)を目指し、オマル側の谷間に自給自足を目指して開村したものです。そして、実篤はこの地に6年間暮らし、農業にいそしみながら文筆活動を行っています。最盛期には50人を超える住民が暮らしていましたが、昭和13年のダム建設により水田が水没することとなり、埼玉県毛呂山町
の八高線沿線に新設された「新しき村に大半の住民が移住しました。現在は5.5ヘクタールの土地に2家族3人が暮らし、武者小路実篤の理念を受け継いで生活しており、村内には、当時武者小路実篤が暮らしていた旧宅を模した「武者小路実篤記念館」があり、当時の出版物や武者小路実篤にまつわる書類・絵画等が展示されていると云う。
さらに流れ下った小丸川は秋月氏の高鍋藩の城下町の高鍋町をを貫流している。この高鍋は昔から文教の街として知られており、特に江戸時代の、上杉鷹山(ようざん、名 米沢藩主となった方)の里でもあることで知られている。この小丸川の下流域を治めていた高鍋藩が、水害対策として堤防、水制の工事を行っていたが、本格的には、1950年から堤防、河道掘削、高潮対策、水門設置などの改修事業が進んで、現在のような広々とした河口となったという。そこを国道10号線の高鍋大橋、続いてJR日豊本線の小丸川橋梁が渡っており、直ぐに遠浅の砂浜海岸の中を日向灘へと注いでいたのだった。この海岸線から数十メートルのところに瀬があって、そこは“玉石(たまいし)”と呼ぶ岩と砂で出来ている海辺となっていた。その玉石の表面は砂などに磨かれて海草などが付いていないことから、「天然かき」の要請の付着が良く、それに加えて小丸川がもたらす上流の森林地帯からも豊かな栄養分によって育まれるからこそ特産の素晴らしい「高鍋の天然かき」が獲れるのであるとのことだった。

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