自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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・「南九州の日豊本線に沿って」
371.  夜明けの日向路 V :夜明けの小丸川橋梁 ・高鍋

〈0001:bQ20442:594レ貨物列車〉


〈撮影メモ:昭和45年2月14日撮影〉
sl019.〈0002〉に掲載中です。
この朝は三脚を立てる時間がなくて、に手持ち連写撮影を試みている。手前は土手で足元には枯れススキが写っている。その先は水面、橋脚3本。
黒い煙の列車が渡って居る。水面は少し光っている。
背後の空はあかるいのて黒い煙がスッキリ。雲は見えなかった。


〈0002:bP60822:1569レ貨物列車〉

〈撮影メモ:昭和43年9月17日撮影〉
手前に水面、中洲、再び水面。橋脚8本のPC桁。
左から、煙がみえない下り列車。
背後の海の上に灰色の雲がモクモクと沸き立っているのがすごい。

〈0003:bP90421:7:00高鍋駅発の上り貨物列車〉



〈撮影メモ:昭和44年2月13〜16日撮影〉
右から土手、橋脚2本。手前の川岸に「モヤッテイル」小舟が写っている。右から左へ灰色の煙の列車が渡り始めた所。空に雲があって、その切れ目だけが明るい。水面も空も暗2ので、夜明け前。だが、少し季節が早すぎたようだ。

〈0004:bP70841: 〉


〈撮影メモ:昭和43年9月21日撮影〉
最初に訪問した時に撮った作品の中の一枚です。
右岸の線路の築堤の橋ダイから13本目までの橋脚が写っています。鉄橋は既にPC(プレキャスト コンフリート)桁に取り換えられていました。
右から灰色の煙りをなびかせた貨物列車が5本目を渡って居る。
右手前足元に草の生えた右岸の土手が少しうつっている。
右側半分は水面、何もない。
左半分は手前の水面から橋の水面までの間に中洲が横に2列が見えている。
バックの空は明るく半分を占めるが何も浮かんでいないのがさびしい。


※以下は制作用の記事です。

【35o縦置きセンタリングあり】




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〈紀行文〉
 ここでは小丸川橋梁の建設のエピソードについて調べたのでご披露しておこう。
初代橋梁は難工事であったようだ。日豊本線の前身である日報南線(宮崎−延岡)のルートが日向灘沿いの海岸線が採用されたことから多くの河川の長大橋梁が生まれることになった。中でも、開通した1921年(大正10年)当時の九州で最長の全長 806mの小丸川橋梁がその代表であった。先ず、34本の橋脚を建設する箇所は河口の地層には玉石が転在しており更に川底の岩盤が深く、その1本1本が難工事だったので、その基礎工に多額の費用がかかった。そして、長さ22.3m、重さi7.3tのプレートガータ桁は小丸川の保護林では工事場所が狭く、花ヶ島駅(宮崎神宮駅)で組み立て、毎日2、3連づつ高鍋に運び、最新鋭の大型操重車で架けて行った。この国鉄浜松工場で新造した8輪ボギー車の活躍が小丸川橋梁を完成させたとも云われる程である。その後、海に近いために起こる鉄桁の塩害腐食が抑えきれず劣化がすすんだことから、昭和35年(1960年)にPC単純箱桁に架け替え工事が行われているのだった。
 ちなみに、に日豊本線が渡る日向灘に流れ込む主な川としては、北から
北川(五ヶ瀬川の支流)
五ヶ瀬川
耳川
小丸川
宮田川
一ツ瀬川
大淀川
などが挙げられた。