自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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369.  「ゆきずりの明智線の点描 ・恵那〜明智
-四つの峠を越えて五つの盆地を巡る沿線-

〈0001:bQ40941:点描 T 〉

〈撮影メモ:昭和47年1月9日撮影〉
雪雲の空の下、白い煙をなびかせて混合列車がやってきた。ドレーンを吐いている所から、どこかの駅を出たばかりか。

〈0002:bQ40942:点描 A 〉

〈撮影メモ:昭和47年1月9日撮影〉
撮影のポイントは忘れてしまいました。恵那駅からソレホド遠くないと思います。

〈0003:bQ30641:点描 V 、陽光の当たる追いかけシーン〉



〈撮影メモ:昭和46年1月6日撮影〉
遠く中国地方の撮影に出かけた帰りに立ち寄った時の作品です。確か朝の陽光だと思います。

〈0004:bQ30642:点描 W 、逆客レ〉


〈撮影メモ:昭和46年1月6日撮影〉
明智から中津川へ戻る中央本線直通の旅客列車ではなかろうか。この時は岩村の街の近くまで行った覚えがある。

〈0005:bQ30643:点描 D 岩村町遠望〉



〈撮影メモ:昭和46年1月6日撮影〉
遠くに見える岩村の街の情景。蒸気機関車が走っていた時代の証拠である。今も明智鉄道のカラフルなDCが古い街並みを走り抜けている筈である

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〈紀行文〉
 私のSL撮影年表で数えてみると、最も多いのが中央西線であったのは、その北の起点である塩尻の地が就職5年の最初のきんむちであり、ワイフの実家があったからでもある。何らかのチャンスに、もの最南端である恵那駅から分岐しているC12の活躍する明智線を行きずりで2度ほど訪ねている。ほんの少し偵察しただけであったが印象に残る数枚をおめに掛けたい。何と言っても、この沿線の「明智」や「岩村」などの戦国の歴史に現れる地名には魅惑されていたからでもある。
この美濃高原という岐阜県の盗難に位置する山中に全長僅か 25qの山岳路線の盲腸線が建設されたのにはそれなりの理由があった。
 明治から大正期にかけて養蚕・製糸などが栄えた明智の町と中央線の大井ん(現在の恵那)との間に鉄道を敷設する運動は当時の岐阜県選出の衆議院議員古屋慶隆さんを中心としての活動によって進められた。それは、日本の幹線鉄道網の大半が開通した対象のはじめに、将来の地方路線を含めた将来建設すべき予定線を規定した鉄道付設法の改正が1922年(大正11年)に公布された。ここには、63.として次の路線が規定された。「静岡県掛川ヨリ二俣、愛知県大野、静岡県浦川、愛知県武節ヲ経テ岐阜県大井(現在の恵那)ニ至ル鉄道:遠尾線」
そこで、この予定線の北淡に当たる大と明智間を建設路線に格上げする請願を続けていた。やがて、明智線として建設線に指定されたので、鉄道省は大井−阿木−岩村−明智 間のルートの明智線を1934年(昭和9年)に開業させたのである。
実は明智線の建設に先だって1906年(明治39年)と云う早い時期に中央線の大井駅前と明智線の対大の経由地である岩村町との間に岩村電気軌道が開通していた。そこで後発の明智線は岩村電気軌道を買収するような選択をせずに、ルートを東隣の中津川盆地の南東端にある阿木村を経由する遠周りのルートを選択して岩村へ至ることにした。これによって恵那盆地から中津川盆地へ、そして中津川盆地から岩村盆地へと二つの
峠を越える山岳ルートとなったのであった。
 さて、ここから沿線の風景描写を試みます。明智線の起点である恵那駅を出た列車は市街地の北東に400mも走ったところから33‰の急勾配が始まり、恵那盆地の縁を時計回りに高さを稼ぎながら農村風景が広がる東野駅となった。ここを出て長さ48mの保古川鉄橋を渡り、山間部を南東に進み、飯沼川に沿って急坂を登りつつ、カーブしている飯沼トンネル(長さ 192m)、続いて野田トンネル(長さ 160m)で峠を越えて今は中津川氏となっている阿木村の集落に向かって27‰の急坂を下って行き、やがて阿木駅となったが、既に恵那駅から約10qも走っていた。ここは集落の中心からは離れていて、村を流れ下る阿木川の下流部に位置していて周囲は農村地帯となっているものの、近くに高校があって通学の生徒たちで賑わっていた。阿木駅を出て直ぐに全長 42mの阿木川鉄橋を渡った。この阿木川は木曽山脈(中央アルプスし)の南部にある焼山(標高 1,709m、中津川と恵那との境界)の南麓を水源として西に流れ、山間部を抜けて中津川市阿木地区の盆地に至り、阿木駅付近を北西方向へ貫流し、阿木地区を抜けると阿木ダム湖となり、その下流で支流の岩村川を合流させて、国道257号(浜松-豊田-恵那−中津川-高山)に沿って北西に流れて恵那市街の間を縦貫したのち、木曽川南岸へと合流していた。
阿木を出た列車は田んぼの中を南西に進み再び登って行き、農道の陸橋をくぐと、その先の断層が確認できると云う掘り割りを通り、続いて築堤の上をさらに登って山間を縫うように走り、峠を越えると飯羽間駅着きました。そのさきは田園地帯を抜けて沿線最大の岩村の市街に向かって坂を下っ行きます。その左側には『農村景観日本一の地』を自称している富田集落があります。ここは東から西に少し傾斜した穏やかな盆地の中に瓦と白壁の昔ながらの農家や土蔵が点在する農村景観が展開し、回りは盆地を形成する緑の低い丘や遠く三河・尾張と境を接する山々が二重・三重に連なっていると云った風景です。さらに南下し、岩村駅に到着しますが、ここでは未だ腕木信号とタブレット交換をまだ扱っていた。この町を中心とする岩村盆地には阿木川の支流である岩村川が流れ下っている。この川も木曽山脈南部に連なる水晶山(標高 958m)の南西麓に発し、岩村盆地を北へ流れて岩村城下を通り岩村川は岩村駅付近を抜けて多くの支流を合せて阿木ダム湖の下流で阿木川に注いでいた。
岩村駅の南東に位置する城山(標高 717m)の頂上には中世の東濃地方に勢力を広げていた豪族 遠山氏が岩村城を築いて本拠とし、麓に城下町を開いた。戦国時代に入ると織田と武田との争奪戦の舞台となり、「女城主の悲話」などが生まれた。この中瀬の山城 岩村城には「六段壁」の異名を持つ本丸虎口の石垣がのこっていて、日本三大山城の一つに数えられている。江戸時代になると岩村藩 三万石の城下町となる一方、尾張と信州飯田を結ぶ「塩の路」てある飯田街道(中馬街道)の中継点として繁栄した。市街地には落ち着いた城下町の街並みが残っている。
岩村を出た列車は国道257号の陸橋をくぐり田園地帯を西から南へと峠に向かった。ここは屏風山断層でせり上がった尾根が岩村町と山岡町の境をなしていて、小山を真ん中から割った掘り割りとなっていて、ここを抜けて小里川の支流の谷を下る途中に花白温泉があった。やがて、瑞浪(みずなみ)盆地の水を集めて濃尾平野を流れ下って名古屋市で伊勢湾に注ぐ庄内川の源流のひとつである小里川が中央を流下る山岡町の領域に入ると山岡駅に到着した。ここは市街地からはいささか東に離れていた。この南と北の二つの尾根に挟まれた地域は内陸性の気候であるため、冬は乾燥し朝晩の冷え込みが激しいようである。古くからこの冬期の気候を利用した天然寒天の生産が盛んであって、冬ともなれば刈り取った稲田に寒天を干す光景が風物詩であった。
山岡を出ると列車は山間に作られた田んぼを見ながら何度目かの峠越えに向かう。
そこは明智町と山岡町との境にある野志峠(標高 550m)であって、それは恵那山断層で南の明智町側がせり上がってできた尾根のあん部にある。ここを越えると、明智町域に入り、小さな集落が現れて野志駅(20世紀末に新設)に到着する。この駅は全国第2位の30‰という急勾配上に設けられた駅で有名だ。併走する国道も蛇行しながら峠を上っている。
ここを出た列車はやがて急坂を下りつつ終点の明智駅へ近ずく。
明智町のある明智盆地は岐阜県南東部に広がる美濃高原の中にある標高約 600mのゆるやかな丘陵に囲まれた盆地で、丘陵間に樹枝状に延びた谷間には水田がある。盆地の水を集めた明智川は南へ流下し矢作川に注い三河湾へ向かっている。
岩村城を拠点とする遠山氏が明智城を築いてから城下町として発展した。しかし戦国時代になると、織田氏と武田氏の草刈り場となってしまった。江戸時代には中馬街道脇道の宿場町として発展し、明治・大正期には養蚕・製糸などの産業で繁栄を謳歌し、西洋文化を取り入れた大正・昭和初期の町並みが良く残っていることで知られている。
 最後に、ここは開業した昭和8年から無煙化までの40年間をC12型蒸気機関車が走りつづけていた線であった。この紀行文を書いて、この明智線がこれほど歴史チリや風物詩の話題にあふれていたとは驚きであったと同時に、作品のへ完全燃焼が恥ずかしい次第です。
蛇足だが、この線区内には転車台がなかったので片道はバック運転であったが、中央線中津川駅からの明智線への乗り入れも行われていた。私の最初の訪問時は貨客混合列車であったが、間もなくレ-ルバスが導入されたことを覚えている。