自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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367.  紀伊水道に面した海辺を走る  ・紀勢本線 /冷水浦−加茂郷

〈0001:bQ30733:“有田みかん”の里を行く〉



〈撮影メモ:昭和46年1月15日撮影〉
和歌山市駅から紀勢本線に載って初めて右の車窓に紀伊水道の海が見えるようになるとまもなく、「温州(うんしゅう)みかん:有田みかん」の産地である有田地方に入った。幻燈の1月でも温暖な有田では山裾がオレンジ色に輝いていた。

〈0002:bQ30741:冷水浦〉

〈撮影メモ:昭和46年1月15日撮影〉
線路はコンクリート護岸の上に敷かれている。その手前は波打ち際で波が砕けている。
線路の先にコンクリート擁壁の上に複線の線路がある。
その先の段の上はこくどうらしい。その先の山の斜面もコンクリート擁壁。左側は空が見えて遠い山並みがしえる。
列車は海側の線路を右から、白煙を吐いて来る。少し出ただけだが、この次にカラースライドを撮影しているはずである。
この左手の海辺には臨界工業地帯(石油コンビナート、住友金属の製鉄所、かおうの工場など)が現れる。

〈0003:bQ31121:加茂郷あたりか〉

〈撮影メモ〉
足元は全面が松の「こずえ」ら写っている。
護岸の下は少し離れて白砂の汀(なぎさ)。右側は海。
左奥には岩礁、そして山が迫っている。


〈0004.予備罫線です。〉




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〈紀行文〉
 私が住んでいるのは関東平野の西端、埼玉県の西武の狭山市だが、最も足の遠かったのが紀勢本線の西の起点である和歌山から南の伊水道に面した海岸風景であった。やっと、昭和46年1月中ごろに、「冬の播但線生野峠」の撮影行の前哨戦として紀勢本線に立寄る予定で出掛けた。この単独行もクルマの強行軍で、東名高速、名阪国道を経て国道42号線に入り、取りあえず「紀州みかん)の産地で知られる有田側流域まで一気に南下して、午後の有田川沿いにみかん畑の山々の中を列車は走る風景を探した。その後直ぐの3月にも再び帰路の途中で立ち寄っている。ここでは有田川から北に掛けての紀伊水道に面した海岸風景をおめに掛けます。
先ず最初に、“和歌山”と云えば、子供の頃の正月の思い出がある。それは父親が大工の棟梁だったので年末になると玄関の片隅に「うんしゅうみかん(温州蜜柑)」のみかん箱が段済みされていた。これはお客様への年始の挨拶回りのさいの年賀として届けるための準備であったことを思いだした。この“温州”が「紀州」(和歌山県)だと知ったのは後年のことであった。それで、先ずは「みかん山」を点景に下写真を狙って、その生産地の中心である有田川流域を目指したのであった。
昼近くなって有田川右岸に付いて見て、その川幅の広さには驚かされた。その時の紀勢本線の有田川橋梁は4年前の1967年に架け替えられた全長 912mのPC単純桁橋であったからである。ソレホド紀伊半島は多雨ちたいなのであろうか。
この有田川は紀伊半島から紀伊水道に注ぐ二大河川の紀側に次ぐ延長 91qのたいがで、その源流は弘法大師が開かれた高野山金剛峰寺の堂宇を取り巻く高野三山の一つ揚柳山(ようりゅうさん、標高 1008mに発し、南西に流れ下って有田氏で紀伊水道に注いでいた。この下流地域はとりわけ「みかん」の栽培が盛んであった。ここを横断する紀勢本線は藤並駅から左岸を西へ走り、そして有田川を渡って、再び右岸を走って有田市の中心駅である箕島駅(みのしまえき)に至っていた。ここから和歌山行きの列車に乗ってみると、半島の先端を回って石油備蓄基地の石油タンクが立ち並ぶ初島駅に至り、再び東に進路を変え天神トンネルを抜けると臨界工業地帯の駅である下津駅と続く。やがて山を越えて
加茂郷駅を過ぎトンネルを抜けると再び海岸線を走行するようになり、左手には紀伊水道が見える。この先の冷水浦駅までの3.9qは、今回の紀勢本線で海が見える最後の区間となる。しばらくすると紺碧の海の景色が広がり、空気が澄んだ日には、遠く淡路島や四国を望むことのできるぜっけいで、対岸までは近くて35qはある海峡となっていた。
この紀伊水道は東西約 30〜55km、南北約 50kmあって、西南日本外帯山地の地殻運動による海水の浸入によって形作られたから、その沿岸は山が海岸近くまでせまり,のこぎりの歯のように岬みさきや入いり江が出入りするリアス式海岸になっている。その沿岸での和歌山市・海南市(下津井)は臨界工業地帯となっていた。その間の入り江や湾内には漁村が散在していた。
もっと季節を選んで足しげく通わねば成らなかったと悔やんでいます。その後に、紀勢本線の黒潮に面した海岸美を本格的に狙うようになったので、別のサイトでおめに掛けたいと思います。