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348.  七時雨山遠望 ・東北本線 /好摩−岩手川口
--北上川の源流を訪ねて/七時雨山源流説のあれこれ--

〈0001:bP3615:急行「おいらせ」〉


〈0002:bP3623:上り重連貨物〉




〈0003:bP3625:北上川上流の田舎風景〉


〈0005:bP3666:トンボ重連後補機〉*、「」


〈0006:bP3656、しぐれてきた七時雨山〉


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〈紀行文〉
 SLを撮り始めてから東北本線盛岡以北が無煙化になるまでの約二年半はもっぱら奥中山D51三重連に眼を奪われて過すことが多かった。やがて電化訓練も始まりか昭和43年4月になって、あわてて今まで撮り忘れていた好摩-岩手川口-沼宮内の間を撮りに出かけた。幸いにも当日は待望の七時雨山(ななしぐれやま)が残雪を戴いた姿を現してくれていたので、ここに「七時雨山バック」のSL写真を、それに最近脚光を浴びつつある北上川の「七時雨山源流説」についても紹介させてもらうことができた。
 盛岡駅から下り列車に乗って右窓を見れば、石川啄木が「わが故郷の山」と詠っている北上山地の姫神山(標高 1,123m)が優しい山容が目に飛び込んでくる。一方の左窓からは男性的な山容の岩手山(標高 2,037m)の姿が眼前に迫り、それが後ろへ遠ざかり、奥羽山脈の八幡平(標高 1,613m)から流れ下って来た松川の鉄橋を渡ると花輪線を分岐する好摩駅となる。ここをでて近くの山々がなくなると幸運に恵まれレは、遠くに長い裾野(すその)を引いた優雅な姿の七時雨山(ななしぐれやま、標高 1,060m)の南山麓の姿をしがらく眺められた。何故なら、この山の名前が示しているように、一日に七回も「しぐれる」ことで知られる山だからである。やがて細い流れとなった北上川を右岸へと渡ると岩手川口駅となり、七時雨山の姿がグット大きくみえるようになる。やがて東西から近くの山の尾根が迫って来て、ここを抜けるとD51三重連の南側の拠点である沼宮内駅は近い。
本来ならば、東北地方を東西に分ける日本海/太平洋との大分水嶺である奥羽山脈の連邦が遠望できるはずなのだが、奥羽山脈の主稜線上にある八幡平から東北に分かれたおねが七時雨山火山横列へと連なって、あたかも奥羽山脈の東側の前衛山脈のようにそびえていたからである。
この七時雨山横列と呼ばれる複式火山の七時雨火山は東日本を縦断する火山列のひとつである恐−青麻火山列に属している火山であった。この聞きなれない恐−青麻火山列とは第四紀火山で主稜線の海溝側(太平洋側)に沿っている火山列であり、北から北海道渡島半島の東端にある標高 618mの恵山から始まり、下北半島の中央部に位置する標高 879mの活火山の恐山(おそれざん)、続いて当の七時雨山、さらに南の蔵王連峰の東山麓にある独立峰の標高 799mの青麻やま(あおそやま)などが属していると云う。
さて、七時雨火山の地形から述べよう。先ず外輪山の列が北側に西から田代山(標高 945m)、毛無森(標高 903m)、西岳
(標高 1,018m)と連なっている。それに囲まれた長径4km、短径3kmの楕円形の浅い凹地である田代平カルデラ(標高 550〜700m)があり、その内の南縁にに中央火口丘としての七時雨山(標高 1063m)が主峰としてそびえている。
そして、この周囲東西20km、南北30kmの範囲に七時雨火山の火砕流堆積物と溶岩流が分布している。特に流下した火砕流により南側と北東側に裾のが広がっていて、東側の北上山地の山麓まで達している。この谷間を北上川の最上流の流れと、奥州街道(国道4号線)東北本線などが並行して北上していた。
このような膨大な量の火山噴出物をもたらした火山活動は第四紀前半の約200万年から100万年前の古い噴火によってもたらされたものである。この結果、中央部に田代平カルデラが生まれ、その周囲は急なカルデラ壁に囲まれた田代平高原となっている。ここに集まった水は唯一の出口を南に刻んで染田川となって流れ下り最終的に八幡平の標高 1613mを源として流下って来た松川に合流して北上川に注ぐことになっていた。
所で奥羽山脈と七時雨火山横列との谷間には、八幡平の安比岳(標高 1,493m)を源に北陵する安比川が流れており、火山横列の東端の西岳の東側を巻いて馬淵川へ合流して太平洋へと注いでいた。
 さて、ここで東北本線南から延々と寄り添ってきた北上川野源流の話題に入ろう。
延長 249キトメートルの一級河川の北上川本流の源流は東北本線の御堂駅に沿っている国道4号線からわずかに東に外れた旧 奥州街道脇にある湧水 「弓弭(ゆはず)の泉」と国交省河川局が定めている。この水源とされている湧水の標高は380mほどであって分水界に近い訳でももなく、また河口からの距離が一番遠い訳でもなく、ただ歴史的に知られた地点であることだけが際立っていたのだった。実は、この本流の源流とされている地点よりも遥かに遠い地点を源流とする支流が南下初夏存在していて、それぞれが「北上川源流」を主張しているのが現状であった。
その中で最も南で北上川に右岸(西側)から合流している松川の上流が「七時雨山源流説」として脚光を浴びつつある。この松川は、この地域第一の長さ 38qと流量を誇っており、かっての北上川酸性汚染の元凶である松尾硫黄鉱山からの鉱毒水を北上川に流し込んだ川として名を知られていた。
その源流は、七時雨山火山横列の外輪山の北西端にある田代山(標高 945m)の南山麓からの湧水であって、『北上川北限の湧泉』と名付けられている。この水は田代平らカルデラの水を集めて流れる染めたかわに合流し、流下って花輪線沿線の平舘のあたりで涼川(すずしがわ)となり、松尾鉱山方面から流れて来た赤川へ合流する。そして下って大更(おおぶけ)に入ってから八幡平を源とする松川に合流して渋民−好摩間で東北本線をくぐって北上川に注いでいた。この経路の延長は松川の延長より可なり長くなることから河口からの延長の最長地点を源泉とするならば、この『北限の湧泉』は北上川の源流として一躍注目を浴びているのであった。
さて、東北本線が北上川の右岸から左岸(東側)へ渡って、中世の川口城の城下町として開けた川口集落へ入った。ここには岩手川口駅が集落の中心にあった。元々、ここは日本鉄道の東北線が全通した1891年(明治24年)から7年後の明治31年に川口駅として開業していたが、1934年(昭和9年)に岩手川口駅に改称された。それは埼玉県に川口市が成立して、そこに川口駅が生まれたことによるものであった。
この集落を抜けると右手に川口城跡のある小高い丘が近ずいて来る。ここは西に北上川、南に古館川の崖地、北に丹藤川(たんとうがわ)があり、天然の地形を利用した標高236mの山城であったと云う。私も高台に登って丹藤川鉄橋を行く東北本線の列車を残雪の七時雨山をバックに狙ってみたのだった。
この丹藤川は約60qの延長を誇っており、北上山地の天峰山(てんぽうさん、標高 850m)と姫神山(標高 1,123m)の間あたりの源流から柴沢川となり岩洞湖に注ぎ、東に流れ、西に流れを変えて素晴らしい渓谷を刻んで北上川へと注いでいた。それ故に、ここも北上川の源流の一つとして数えらレていた。
 最後に、岩手県盛岡から七時雨山の北西麓を越えて安比川の谷へ出て、さらに奥羽山脈を越えて鹿角に入り、秋田県の大館とを結んでいた鹿角(かづの)街道(今の国道282号線)の歴史にも触れておこう。この道筋は古来から人が往来していたようで、縄文文化の中心地であった日本海側と内陸との交易路であったと想定されており、下って奈良・平安時代の頃には軍道(いくさみち)として、七時雨山辺りは「流霞道」の名で歴史に登場している。また太平洋沿岸からの「塩の道」でもあったらしい。この頃から、一日に7回も空が“しぐれる”ほどの峠の天候の変りようにつけて、この山を『七時雨山(ななしぐれやま)』と呼びようになったと云う。
さらに下って、戦国時代の南部藩は本処置を三戸から福岡(現在の二戸)へ、その後に南下して盛岡に居城を移したことから、この街道筋の重要性が一層増したのであった。そして17世紀初頭鹿角郡において金山開発がおこって、白根・立石・尾去沢などの金や銅を産出する鉱山が多く開かれた。特に尾去沢鉱山は戦国時代頃から金が多く採掘され始め、金の鉱脈はやがて尽きてしまったが、1666年に銅鉱が発見され、日本三大銅山の一つに発展した。
これらを契機に南部盛岡藩領内の基幹道である奥州街道の脇街道として整備がおこなわれ、「銅の道」としての役割を果たした。
この鹿角街道は、盛岡城下の出入り口にあたる北上川に架かった土橋を渡ると、そこで雫石街道と分岐し、ここから「鹿角街道」となる。この下記で大更(おおぶけ)で松川を渡り、北西に進む。盛岡から約30qで最初の宿場町である田頭村(現の西根地区)となる。田頭付近から国道282号線は西に迂回するが、鹿角街道はそのまま北上し、寺田を通って街道随一の難所と云われた七時雨山の峠を越えて、方向を西に転じ、再び国道282号線と重なり安比川の谷へ下って、荒屋新町、田山を通って、兄畑付近を過ぎると、奥羽山脈を米代川沿いに横断し、鹿角へ至る約100qの行程であった。これに対応する鉄道は東北本線の好摩を起点に大館を結ぶ花輪線が、8620型蒸気機関車の三重連運転で知られる龍ヶ森の峠を越える東北横断路線として通じていた。

撮影:昭和43年(1968年)4月7日。