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345.   米山海岸俯瞰(ふかん) ・信越本線 /米山〜鯨波

〈0001:bO80522、笠島-米山間〉縦。





撮影メモ〉
米山海岸の松ヶ崎と云う岬に通じる丘陵から俯瞰さつえいした。
493レ。背後の山肌に見える左側の大きなトンネルの入り口は建設中の複線電化用のものです。

〈0002:bO80533、段々と上へ続く笠島集落の家並み〉横


〈撮影メモ〉
中ぐらいの高さの崖から撮っています。
右に海、汀に接して線路、この先に漁村の民家が段々とぎっしりならんでいた。その中を旧北国街道や通っていた。

〈0003:bO80446、青海川俯瞰/米山遠望〉



〈撮影メモ〉
493レ、青海川付近。
米山海岸に突き出した鴎が鼻(かもめがはな)に通じる丘陵の尾根からの俯瞰である。幸いにもと米山が姿を見せていた。

〈0004:bO80443、青海川の二つ島〉横。


「撮影メモ」
562レ貨物。
午後の西からの陽光が当たっている。
正直を云うと撮影場所を忘れてしまった。

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〈紀行文〉
 新潟県は約330qもの日本海に面した海岸線を本州側に持っており、その西から三分の一ほど北東へ行った辺りから、聖ヶ鼻(ひじりがはな)、田塚鼻(牛ヶ首)、松ヶ崎、鴎ヶ鼻(かもめがはな)、番神岬などの断崖が海に突き出した米山海岸が約12qにもわたって続いています。ここは新潟・長野県境にある標高1000mを越える関田山塊から北へ延びる東頸城(ひがしくびき)丘陵が海に迫っていて、その北西端には標高 993mの米山が海岸から3qも近い所にそびえていた。この海辺に接するよぬに信越本線が長短八本のトンネルを貫いきながら米山(元 鉢崎)−笠島−青海川−鯨波の各駅を約9qで通じていた。このいずれの駅も海に接近してはいたが、とりわけ青海川駅は日本一海に近い駅として名をはせていた。
 ここでは、「米山さんから〜雲が〜出た〜ぁ♪」の民謡 三階節で歌われている米山の美しい姿を背景に日本海岸を行くSL列車を俯瞰(ふかん)した写真をご覧に入れたいと思います。
 その昔、奈良時代の初めの頃、都からみれば北陸道の北のフロンテアーであっった越後の国へ「薬師信仰」を伝えるべく下って来られた一人の聖(ひじり)がおられた。その方は奈良時代の和銅5年(712年)に米山を開かれた泰澄大師(たいちょうだいし、691-767)、その人であった。この方の前身は越前の生まれの修験行者(しゅげんぎょうじゃ)・泰澄さまで、北陸の白山(はくさん)を開かれたことで知られており、数々の功績により朝廷から大師号を賜ったと云う。米山の西麓に庵をむすんで米山の頂上に薬師堂を創建された。そして、その間を往復して修行されておられた。山の薬師堂で仏像を刻んでいた大師について修行していた沙弥と云う弟子がおられた。いつも弟子は海岸沿いの集落を中心に托鉢していましたが、時には沖を通る船に托鉢することもありました。船を持っていない弟子は岬に立って、神通力を使って「この鉢にお米を少し恵んでください」と云って船に向かって托鉢用の鉢を投げると、鉢は法力によって船まで飛んでいき、船に乗っている人がその鉢にお金やお米を入れると、鉢は自力で修行僧の元に戻ってりたと云う。ある日、沖を通りかかった沢山の米俵を積んだ船に向けて米の托鉢を乞うたところ、強欲な船主から拒否されてしまった。すると、船に積んでいた米俵の全部が大師のおられる五輪山(後の米山)の頂に飛んで行ってしまった。困った船主は船を降りて、村人に教えられるまま山に登って「心を改めます。」と詫びを入れた。すると全ての米俵は直ぐに船に戻ってしまったと云うのであった。それ以来、村人たちは五輪山を『米山さん』と「さん」付けで敬って呼ぶようになった。また、托鉢をしていた集落も『鉢崎』と云うようになり、沖の船に鉢を投げた岬も『聖(ひじり)ヶ鼻』との名が付けられたと云う。
この山頂に開かれた米山薬師堂は「田畑の豊作、雨乞い、海上の安全」の祈願に霊験あらたかとされていた。地元の各地では「米山講中」が作られ、その人々によって守られて来ており、三河(愛知県)の鳳来寺薬師、日向(宮崎県)の法華嶽薬師と共に日本三大薬師として信仰を集めていることで有名である。
この一見して美しい姿を見せる米山は長らく“死火山”とされていたが、昭和の初めに山そのものは海底から隆起した山であることが判って、火山ではないことが明らかになった。この360度の展望の優れた米山の頂には原三角点(四角錐台、高さ40cm、上部は、15cm角の石柱)が埋標されている。これは1882年(明治15年)に内務省地理局(陸軍参謀本部陸地測量部の前身)が日本国内に50点を埋標した三角測量のげんてんであって、現存する三か所の一つである。その後に、ここに参謀本部の一等三角点が設けられ地図制作に貢献していた。昔はこの山を境に西を上越後、東を下越後と呼んでいた。江戸時代に北陸道が北国街道として再整備された時に、米山の麓を越える米山峠の西側には鉢崎関が設置され、出雲崎や佐渡島に向かう旅客を取り締まっていた。この先は「米山三里」と呼ばれる街道随一の難所として知られるみちすじであった。これらの険しい地形は、「米山海岸部に多く現れる標高 30〜110mの海岸段丘は米山から流出する
谷根川(たんねがわ)や払川(はらいがわ)、前川などによって渓谷状に開削され、海岸側は段丘、崖下が岩礁帯を形成しているなど、米山から流れる河川と日本海の荒波の働きによって作られたと云うのであった。
 ここで先ず、信越本線が直江津駅をを出て初めて日本海に接する柿崎駅から北へたどってみることにしよう。
私の郷里でもある新潟県内に鉄道が開業したのは県西部の直江津で明治19年と意外に早かったそれは信越本線の前身である官設鉄道の「直江津線」が直江津港を起点に内陸の長野県の上だ方面を目指して明治18年(1885年)に着工したからである。これは、明治政府が進めていた東京と神戸を結ぶ幹線鉄道を長野県を経由する「中山道ルート」で建設することが決定し、その建設用の資材を関西から日本海経由で内陸の建設現場に運び込むための鉄道の敷設を先行していたからである。
ところが、この直江津線も建設が長野県内へすすみ、また中山道幹線も日本鉄道の高崎から碓氷峠を目指して着工していたのだったが、幹線鉄道の建設が急きょ東海道ルートへの変更となり、直江津線は主な目的を失ってしまった。
しかし、地元の強い要請もあったことからか、着工していた中山道幹線の工事も引きついで直江津線は順次延伸して明治26年(1893年)には碓氷峠(うすいとうげ)をアプト式鉄道で乗り越えて高崎に達して、東京(上の)への直通列車が走るようになったからである。
当時の政府では、陸軍の歩兵第16連隊が駐屯している新発田までの鉄道の敷設を軍からも要請されていたから、直江津線を新潟・新発田へ延長する計画であった。しかし、当時の政府財政が困窮していたこともあって、なかなか建設に踏み出せないでいた。やがて、明治25年になると国が建設すべき鉄道路線を規定した鉄道敷設法が公布されると、ここには、東京と新潟を結ぶ鉄道「北越線」として『新潟県下直江津、または群馬県下前橋、もしくは長野県下豊野ヨリ新潟県下新潟、および新発田ニ至ル鐵道』が規定された。その後の議論の末に
直江津線の豊野から分かれて信濃川に沿って北上し、飯山、十日町、長岡、三条を経て新潟に至る案、それと高崎から分かれて前橋、三国峠を越えて長岡、三条を経て新潟に至る上越線案が否定されて、直江津江津線延長案が採択された。このルートは直江津から日本海岸に沿って北上し柏崎から内陸に向かい、塚山峠を越えて信濃川を渡り長岡へ、三条、新津を経て新潟に至る計画であった。それは信濃川河口の左岸に発展していた新潟市街に直線的にアプローチするには地盤の悪い低湿地帯の広がる蒲原平野を縦断しなければならないので山沿いの信濃川右岸を迂回するルートを選んでいたのである。
しかし、地元からの誘致運動にもかかわらず予定線から建設線への格上げがなかなか実現しなかった。
そこで、地元の実業家である久須美し秀三郎らを中心とする新潟県内の有志は中央野資本家である渋沢栄一に東京の資本家を呼び込むことを依頼し、渋沢を発起人代表として1895年(明治28年)に北越鉄道(株)を設立した。
そして、官設鉄道の直江津線や碓氷峠(うすいとうげ)のアプト式鉄道を完成させた本間英一郎(ホンマ ヒデイチロウ、1854-1927)を技師長として招いて、直江津から新潟、新発田を目指して建設を始めた。この方は明治2年に土木学を習得するためるアメリカのマサチューセッツ工科大学へ留学し、帰国後は工部省鉄道局で鉄道建設に貢献された明治の鉄道人である。
そして明治29年(1896年)4月には鉢崎(現在の米山)から米山峠下に隧道を貫くための掘削工事を起工し、早くも翌年の8月には直江津〜柏崎間が開通した。当時の工法でのトンネル掘削は全て人力で行われ、トンネルや鉄橋の橋台は煉瓦積が施工された。それに使われた赤煉瓦は柏崎の大久保で行われていた手瀬戸物屋瓦の製造工場が供給しており、その後の柏崎では赤煉瓦建ての店舗や倉庫を立てることが流行したそうだ。
さて、直江津を離れ、柿崎まで来た信越本線は、日本海に面するようになった。次の米山駅からも素晴らしい日本海が眺められる。ここは1961年(昭和36年)に鉢崎駅から米山駅に改められてはいるが、米山への登山口へは徒歩で40分もかかることから登山の玄関口とは云い難い。
米山駅を出て古い宿場の家並み脇を1qほど進みと、聖ケ鼻に通じる丘陵のすそに突き当たると直ぐに延長 192mの米山第1トンネルに入った。この第1トンネルを抜けると、そこには素晴らしい日本海が現れた。そこは人家もなく、ただ日本海のみがあるだけであった。すかさず長さが192mの米山第2トンネルに入った。ここを抜けると海辺に沿って走った。線路沿いに小さな集落があって、しばらくトンネルが途切れて走る間には、微妙なカーブを描いたり、煉瓦を積んだ橋台のある短い鉄橋を渡ったり、
この辺りから落石防護柵などが見受けられるようになった。ここまで東へ進んでいた線路が北東に向きを変え、上(あげわ)輪集落の中に入って来た。この集落に流れる払川(はらいがわ)をコンクリートで固めた橋台に架けられた鉄橋を渡った。この川の上流は渓谷となっていて米山への登山ルートとなっている。ここは海からの季節風が強く吹く場所として知られ、後年に防風ネットが装備されたことで知られるようになったと云う。
まもなく、行く先に迫って来た切り立った崖に穿たれた米山第3トンネルには重厚なロックシェードが付けられていた。その直前点山側には小さな滝が落ちていた。やがて米山第3トンネルの長さ 442mの闇の中に吸い込まれた。ここは米山海岸の中で最長のトンネルである。日本鉄道請負業史によれば、掘削工事中に大規模な崩落が発生して作業をしていた人たち13人が生き埋めとなって死亡する事故が起こっているとのことを知った、合掌。
このトンネルを出て約250mほど緩やかに左カーブを切って行くと次の米山第4トンネルの入り口となる。この間、左の車窓からは日本海が防波堤の上に広がっているのが見えた。次の米山第4トンネルにも10メートルほどのコンクリート製ロックシェードが据え付けられており、そのトンネルノ延長は 248mとのことだった。
この第4トンネルを抜けて次の米山第5トンネルに入るまでの間隔は意外と狭く感じられたのは両側にある海に突き出した半島のような丘陵のせいだろうか。そして海側は前と同じような防波堤が続きていて、その切れ目(出入り口)を通り過ぎる一瞬だけ視界がひらけて小さな海辺が見えたようだった。一方の右手は山が迫っていて、ここには高く分厚いコンクリートの落石止めの上に、更にレールで組まれた落石防護柵が乗っかっている。
それに加えて、米山第五トンネルが口を開けている上の山が押しかぶさるように迫って来ることから、異様な閉塞感を与える場所であった。
実は、この延長 142mの米山第5トンネルが貫いている岩肌がむき出しになっている丘陵は田塚崎(牛ヶ首)の岬として日本海に突き出していた。この名は「寝そべった牛が水をのんでいる姿に似ている」ことに由来していた。この西側は高い断崖が切り立っていて、そこには“層内褶曲”と呼ばれる露頭が遠望出来たのだった。この垂直に削られた面には
上下の泥岩層が整然としているのに対し、真ん中の暗色の地層層は上下に波打っていて地殻変動が起こったことを物語っていた。まるで暴れる竜の姿を思わせたのであった。
この米山第五トンネルを出ると、左には弁天島を控えた笠島漁港や砂浜が近ずいて来た。一方の山側の斜面には漁村の家並みがひばり着くように張り付いていた。
やがて狭いホームを持った笠島駅に到着した。ここの駅は昭和26年に仮乗降場として設けられたのが始まりの新しい駅であった。この裏手は200mほどで海辺であった。
ここの汀から眺めた笠島集落の景色は風情がある。町は断崖の斜面に何段にもなって築かれていた。一番上は国道8号線沿いだが、本来の部落は下の北国街道に沿っている。部落の海側の一段と低いところは信越本線の線路が通っていた。
右手の山肌の低い所には、大きな断面の複線電化用の新線トンネル口をが、その手前には現役の単線トンネルが口を開けていた。この新しい長いトンネルは現役の3本分のトンネルを一気にぬけてしまっているのだが、あの米山海岸の絶景を眺めることは不可能になってしまったことは残念なこととなるだろう。
さて、笠島駅を出ると直ぐに小さな石と煉瓦で積んだ橋台のある鉄橋を渡り、その先で低い丘陵の下に掘られた米山第6トンネルの199mを走り抜けた。ここから次の米山第7トンネルに至る区間はすぐ左側は海であり、線路は海面から数メートルの高さを維持しつつ北進している。ここは全線中でも最も海に近接した所であろう。ちなみに工事中の複線電化の新線は山側をトンネルで通過する予定であった。そしてこの間には明治時代に築かれた煉瓦積のアーチ橋の上を通過したり、次いで昭和36年に設けられたコンクリート製の重厚なロックシェードロックジェッドをつうかした。
この海側に並ぶ明り取りからは日本海に砕ける波飛沫が間近に見え、海鳴りの音と、光が線路内に充満していることだろう。
この場所は昭和8年に上野発新潟行の旅客列車が、折からの暴風雪で崩落した土砂に乗り上げ、脱線、転覆して、機関車とその後ろの客車一両が海中に転落する事故も起きているとのことであった。
そして幾つつもの切り通しを通り抜けると次の米山第7トンネルとなる。この上の尾根は海へ突き出して松ヶ崎の岬となっていて、ここを抜けるトンネルの延長は329mとなっている。
この長いトンネルを抜けると、高さが数十Mの斜面に挟まれた幅200mを越える谷底平地へと踊り出た。すると、右の車窓の上法には昭和41年に開通した国道8号線に架けられた刀根山大橋の高さ53m、全長278.9mの威容が目に飛び込んでくた。その背後には米山の姿も遠望できた。また海側は青海川海水浴場の砂浜となっていて、一段と海辺が線路に近ずいてきていた。間もなく、日本一海に近いと云うキャッチフレーズで有名な青海川駅に到着する。ここは明治30年(1897年)に前身の北越鉄道が鉢崎(今の米山)−柏崎を開通させた2年後に新駅として開業した古い歴史を持っており、相対式ホーム2面と、ホームを連絡する跨線橋が設けられていた。印象深いのは、海岸寄りのホームには円形窓の付いている風避けがもうけられていたことであった。そして、当時発表の鉄道唱歌のなかでは、
『みわたす空の青海川 おりては汐もあみつべし』
と歌われていた。
こ下り列車が青海川駅の海側のホームを発車して間もなく切石を積んだ橋台に架かる鉄橋を渡った。この下を流れるのは延長約9qの谷根川(たんねがわ)で、左手はすぐ海に注ぐ河口で幅は約10mにも足らない小さな河川であった。ところが、秋になると県北の村上氏を流れる三面川(みおもてがわ)に次ぐ鮭の遡上(そじょう)の多い川であるだけでなく、その他の季節には岩魚(いわな)の天国として釣人には名を知られた川なのであった。それも米山の山麓が育んできた豊かな「ぶな」の森を源とする清冽な流がもたらした賜物であったし、それに上流には米山湖と云う水道用のダム湖が設けられて柏崎市民への飲料水を届けてもいたのであっった。
この先を約200mほど走ると最後の米山第8トンネル(延長 430m)のレンガ積みのポータル(坑門)が待っていた。こちら側の斜面は鴎が鼻(かもめがはな)と呼ばれる岬に通じる丘陵の尾根であった。この日本海に突き出た岬の先端には「福浦猩々洞」と云う天然の海食洞がある。これは海に面しる奥行が90mもある海面洞窟であって、何んと2万頭の「こうもり」が生息している天然記念物なのであった。それに日本海へ落ちる夕陽の景観ポイシトで知られていた。
我々鉄道趣味の者ニ取っては、この半島の丘の上からは米山遠望、それに日本海に沿った海浜を行く蒸気列車と共に俯瞰できる撮影ポイントとして有名だった。
確か「こうもり」は農作物を荒らす小動物を捕食してくれる有益動物であり、古来から「幸福」をもたらす生き物として地元では親しまれて来たという。ちなみに柏崎地方で産出する石油を採掘しる日本石油(株)の創立式場へ1頭の「こうもり」が迷い込んできたことから、同社のトレードマーフに「こうもり」をデザインしたロゴ(商標)が採用されたと伝えられる。私も長岡の大学に学んでいた頃に、このマーフを付けたタンク車を良く見かけたことお思い出している。
私も「こうもり」にあやかって、ここからの俯瞰撮影に取り組んだのであった。
このトンネルを抜ければ鯨波海水浴場ととなり、米山海岸も終わりに近ずいた。

撮影:昭和42年10月9日。

〈引用資料〉
紀行文正確に辺り参考にさせて頂きました。
熱く御礼を申し上げます。
「JR信越本線旧線 米山の廃隧道群 0」 

http://d-road.sytes.net/r.php/rail/shinnetsu_yoneyama/0