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・東北本線/千曳旧線を訪ねて
344.  十和田・七戸を通る奥州街道 & 南部縦貫鉄道

〈0001:bO90111、切り通しから千曳駅侵入〉




〈撮影メモ〉
この千曳駅は太平洋と陸奥湾と間をへだてる下北半島の付け根を走る低い丘陵のサミット(頂上)の辺りに設けられている。八戸型の低い切り通しを登って千曳駅の交何に差し掛かろうとしている下り列車です。
この右側の丘の上を南部縦貫鉄道の線路が南西に向かって進んでいました。撮影は昭和42年(1967年)11月4日撮影です。

〈0002:bO90114、荷物列車44レ通過〉

〈撮影メモ〉
この旧線の千曳駅は日本列道東北線が開通してからしばらく経った1910年(明治43年)に官設鉄道の駅として開業した。ここは南の乙供駅から6.6q、北の野辺地駅へは6.4qの位置にあって峠のサミットでもあった。ここは冬の季節風から杉の防雪林に守られた広い構内は、長大な列車の行き違いや通過を可能とした駅であった。ある晩秋の早朝、下り普通列車が数人の乗客を乗せて千曳駅を発車して行って間もなく上りの荷物列車 44レを引いたC6130号が通過して行った。遅い浅野陽光が降り注いでいた。

〈0003:冬の西千曳駅、風太郎さま 1984年1月撮影〉


〈撮影メモ〉
昔の千曳駅では、東側にあるホームは驚く程長かったのに対して、西南側の外れに南部縦貫鉄道の短いホームガあった。そこに停まったレールバスはバックミラーを両側に付けて、ドアは2枚折戸で、車輪は前後2軸だけで、バスのゴムタイヤを鉄輪に取り換えたような姿で、唯一異なっていたのは車体から突きだした連結の異様さであった。やがて、東北本線の新線がかいつうすると、ここは南部縦貫鉄道の西千曳駅となった。
1984年1月、雪に覆われて風雪に耐えて来た西千曳駅、古典的な煙突のある駅舎と乗客の人美路。
この“ふるさとの風景”の写真は風太郎様から転載のお許しを頂きました。
ここに厚く御礼を申し上げます。
・寫眞の典拠:
『風太郎の「旅の空」』
 レールバス紀行  ( 青森県 南部縦貫鉄道  )   
http://www.ab.auone-net.jp/~futaro/nanbu.html 

〈0004:bO81134、千曳駅辺りの南部の風景、昭和42年11月〉

〈撮影メモ〉
どうしても撮影場所が思い出せなかったが、地元のレールバス愛好会の小川 清之さまに見て頂いて、
「国鉄旧線の千曳駅の付近」である所とがわかった。まとまった集落の存在とと背後の山々の形から判ったとのことだった。レールバス愛好会の皆様に厚く御礼を申し上げます。
……………
〈紀行文〉
 ここでは東北本線千曳えきを起点としていた私鉄の南部縦貫鉄道の在りし日の姿をおめにかけたい。この鉄道は、当初南部の七戸藩の城下町で、奥州街道の七戸宿であった七戸町から東北本線の千曳駅とおむすんでいたのでした。
 続いて、東北本線の前身である日本鉄道の欧州線開通によって交通の主役から見放されてしまった奥州街道(正式には松前道、明治以後は陸羽街道、国道4号線)のうちの三戸宿から七戸宿を経て野辺地宿に至る間の風物を追いながら、南部縦貫鉄道の生い立ちを展望してみました。
この一帯は“南部藩発祥の地”と呼ばれていて、協議の南部であって、その中心に現在も南部町が存在していて、駅で云えば東北本線(青い森鉄道)の三戸駅 - 諏訪ノ平駅 - 剣吉駅 - 苫米地駅である。そこで、この「南部」の名のルーツを調べてみた。
その始まりは、
今の山梨県に当たる甲斐国に栄えた甲斐源氏の一族が山梨県最南部の富士川に沿った静岡県に接する辺りに存した「南部郷」を地盤を築いて「南部氏」の祖となった。やがて朝廷が行なった奥州平泉の藤原氏征討に従軍して、その功により陸奥国の北部の糠部郡(ぬかのぶぐん:今の岩手県北部から青森県東部)を賜った。この郡内には既に「九ヵ部四門の制」が敷かれていて、郡内を一から九までの「戸」に分け、一戸ごとに七ヶ村を所属させ、南門が一戸・二戸、西門が三戸・四戸・五戸、北門が六戸・七戸、東門が八戸・九戸賭であった。これらの地は名馬の産地で多くの牧場が昔から営まれていた。そして甲斐の国から一族を引き連れて今の八戸付近に上陸し、馬淵川の少し上流の地、現在の南部町に本拠と構えて統治を始めた。そして奥州南部家の最初の城である平良崎城を築き、勢力の拡大に努めた。そして少し南の現在の三戸町の地に三戸城を築いて本城とし、鎌倉時代には源頼朝(よりとも)に出資していた。
戦国の天正18年(1590年)には、豊臣秀吉の小田原征伐に参陣し、秀吉から7ヶ郡(糠部郡、閉伊郡、鹿角郡、久慈郡、岩手郡、志和郡、そして遠野保)の所領についての朱印状を得て、豊臣大名に列した。その後も南や西へ勢力を伸ばして、今の岩手、青森、秋田の三県にまたがる領地を確保するようになり、根拠地を南の北上川上流の地に移して、盛岡城を築いて盛岡藩10万石の大名として幕末まで栄えた。
 さて、東京−青森を結んでいる鉄道の東北本線と、道路の国道4号線(元 陸羽街道)が並行して岩手県北部を馬淵川の谷を下って青森県に入って間もなく、

長かった東の北上山地と西の奥羽山脈に挟まれて北流する馬淵川の谷間を抜け出て、奥羽山脈北端に連なる八甲田の山山から太平洋岸に向かって広がる丘陵地帯から低地へと広がる八戸平野への出口が南部藩の本拠であった三戸城の城下町であり、奥州街道の三戸宿でもあった三戸町であった。
ここから先では鉄道は海沿いの八戸から三沢を経て下北半島の付け根の台地を抜けて野辺地に向かっており、一方の道路は内陸に向き尾変えて八甲田山からの山裾を横断して三本木(今の十和田)、七戸を経て野辺地へ向かっていた。
先ず東北本線が開通する前の昔の話である。当時の明治政府は明治5年(1872年)11月と云う早い時期に工部省の准十等出仕の小野友五郎に東京・青森間の鉄道建設ルートの測量を行わせていることは前にも述べた。
この時の三戸〜野辺地の間の測量るーとについては、奥州街道(国道 陸羽街道)に沿ったルートと、現在東北本線が通過している海沿いの尻内(今の八戸)から沼崎(今の上北町)を経由
するルートの両案を測量していた。
やがて、日本鉄道が建設を始めるに当たって、陸軍から海岸線に接近するルートを廃して内陸側を通過するルートを選択する要請がだされていたが、最終的に海岸に近づかない条件で八戸経由で建設が行なわれてしまった。
ここから奥州街道をたどることにしよう。馬淵川に別れを告げた奥州街道は東北に向きを変えて、高山峠(たかやまとうげ、標高 277m)で丘陵を越えて五戸川の流域に出た。この川は十和田湖の外輪山東縁の十和利山(991m)を源流として、五戸宿を通り約50q流れて八戸で太平洋に注いでいた。古代の館の跡に南部藩の代官所が設けられていた五戸宿を出た先は、東西約 30km,南北約 15kmの三本木原と呼ばれた八甲田火山群からの火山灰におおわれた台地であった。その最大標高は90mで荒涼とした樹木の生えていない原野をほぼ半日の行程で、人家も全く無い道が抜けていた。この街道から左側を見ると、遠く雪を被った十和田湖外輪山と八甲田山が見えていたはずである。ここには伝法寺宿と次の藤島宿があったが宿と云っても半月交代で継立業務を行なった半宿であった。この原野は幕末に近い頃、南部藩の新渡戸傳(5千円札の肖像になっている新渡戸稲造の祖父)による奥入瀬川からの利水による三本木原の新田開拓が成功する一方、明治18年には旧陸軍の軍馬局出張所(後の軍馬補充部:育成所)が設けられるなどして原野の中に計画化された三本木村の市街地が生まれた。今の十和田市の基である。
やがて標高 401mの十和田湖を源として太平洋に注ぐ奥入瀬川を御幸橋を渡る。そして小さな峠を越えて隣の盆地の大林川を渡ると、南部縦貫鉄道の線路があって、その正面が終点の七戸駅構内である。そしてすぐに大林川の本流である高瀬川(七戸川)に架かる七戸橋を渡ると南部藩(盛岡藩)の支藩である七戸藩の七戸城の城下町であり、旧奥州街道98番目の宿場であった七戸宿に入る。この川は七戸地域を潤して太平洋岸に広がる小川原湖に注いでいた。その湖岸に沿って東北線が三沢から野辺地へ向かって通じたときに、沼崎駅が湖畔にもうけられたので、七戸町からの最寄駅として利用されていた。
話を七戸宿に戻そう。この七戸宿から次の野辺地宿まではおよそ5里(20q)ほどの行程であって、南部藩の領していた鹿角鉱山で産する銅地金や南部北部産の大豆などの御用物資を大坂へ送るため野辺地港まで運ぶ経路として賑わっていたようであった。この宿を東へ出ると、やがて見事な松並木が道の左側に約500mほど続いてから、道は急な下り坂となり、高瀬川の支流の中野川を中野橋で渡と中野追分(三叉路)となる。今の標識には直進が青森、野辺地(国道4号線)、右手が東北町(県道173号乙供停車場中野線)とあった。これを旧奥州街道で云えば、右側が奥州街道 下道(しもどう)であり、一方の左ガ上道(かみどう)であり、どちらも旧奥州街道である。
下道は松前藩の参勤交代や、幕府巡検使が通った本路であって、中野から天間館、そして石文(いしぶみ)の集落の辺りで東北本線の下をくぐって、ここから大平台地の峠を越えて野辺地へ下ると云う原野と山越えの続く東周りの道筋であった。それに対して左側の下道は地元の人々、それに旅人や商人などが多く利用した近道であって、沿道には人家が多く散在していて歩き易い道筋であったようだ。
ここからは下道をたどって野辺地宿へ向かうことにしよう。この辺は、旧道が国道4号線にまとわり付くように残っている。やがて前方に坪川に架かる坪橋が見えてきた。坪川は八甲田山東北麓を源流とする川で、この下流で高瀬川と合流し、小川原湖に流入している。坪川を渡れば坪集落に入り、
その先は旧街道らしい道の一本道である。やがて、柳平を過ぎて千曳神社追分石(
、右 千曳、左 野辺地)のある追分に出た。ここから野辺地へは峠越えとなり、左正面に千曳神社が祭られている尾山頭の集落が見下ろせた。この社は青森県最古の神社で、大同2年(807年)坂上田村麻呂の創建とのことであり、古来から「日本中央」と刻まれた「つぼの石文」が祭られているとの伝説があった。
千曳神社の参道入口から街道へ出る。やがて峠を越えて七戸町から東北町字家の下へ入って峠を下ると道の右側に近年に設けられた“日本中央の碑歴史公園”があった。ここには「日本中央の碑保存館」を中心に歴史的歌碑などが集められていた。
この先で、所々に旧道が残されていた。車の殆ど通らない快適な道となっている。左側にある東北町立千曳小学校が見えてきた。ここから再び峠道となる。峠の先に左側に、明治天皇親巡幸がある。明治10年の東北巡幸の際に、「田村麻呂の碑はとうなったか」との御下問があった所である。
峠道を下って行くと、県道8号線、八戸野辺地線に合流し、300m進みと石坂交差点で国道4号線に合流した。国道の先には東北本線の千曳駅が存在しており、国道は東北本線に沿って石坂を下って行く。
 際ゴに、ほとんどカメラを向けたことがなかった南部縦貫鉄道についても触れておきたい。この雄大な“縦貫”の文字を真ん中い挟んだローカル私鉄は、そもそも東北本線の千曳駅を起点とし、国道4号線(旧奥州街道)に沿っている七戸町、三本木町(現十和田市)、そして五戸町を経由して東北本線の三戸駅に連絡する計画のもとに設立されたと云うから、正に南部藩発祥の地域を縦貫しているのであった。この経路は明治の初めに青森〜東京ウ結ぶ鉄道建設ルート調査の際には、三戸-野辺地間のルートの一つとして測量も行われていたのだった。しかし、こちらは山岳地帯であるという地形的な不利に加え、地元住民の反対運動もあったようで、三戸以北の建設は現在の海寄りのルートで敷設されてしまった。そして日本鉄道の東北線が開通して交通の便利な時代が到来したのに、この地域が豪雪地帯であることから今までも冬期間の交通がしばしば遮断されて「陸の孤島」状態となることが続いていた。また、豊富な農林物や水産物、それに鉱物などを産するのに、その輸送手段を持たないことが地域の経済発展を遅らせていることが明白になってきた。そこで東北線の支線の誘致運動を続けたが不調に終わってしまった。その代わりに、民有による鉄道敷設の運動が高まって来た。そこに先鞭をつけたのは大正11年(1922年)に軌間 762oの軽便鉄道を東北本線の三沢から三本木(現・十和田市)まで開通させた十和田鉄道(十和田電鉄の前身)であった。取り残されていた七戸町では、やっと昭和27年(1952年)になって南部縦貫鉄道期成同盟会が結成されて、翌年には千曳〜三本木間(27q)の地方鉄道施設免許を得ることができた。そして地域住民の一株主運動などもあって資本金3,000万円の南部縦貫鉄道
(株)が設立された。そして着工したものの、間もなく資金が尽きて建設工事が中断を迫られる事態となった。丁度その頃、戦前から東北地方の振興を氏名として展開していた国策会社の東北開発会社では、下北地域が全国の約20%もの砂鉄の埋蔵量を誇ることに着目して、それを原料とする製鉄事業を計画していた。そして下北半島の大湊に建設を予定した「むつ製鉄」への砂鉄の供給を南部縦貫鉄道沿線の天間林から採取し鉄道輸送するためへの南部縦貫鉄道が果たす役割に注目が集まった。そこで先行して東北開発会社では南部縦貫鉄道に出資をおこなったことから、昭和37年(1962年)には千曳―七戸間(全長 20.9km)が開通した。その時、貨物輸送が主な目的であったから旅客輸送はわずかと見込まれていて、当時の富士重工のバスに鉄の車輪を履(は)かせたような小さな2両のレールバス、キハ101と102の2両を用意しただけだったというのである。
しかし、その頃になると輸入鉄鉱石や輸入屑鉄の価格下落や高炉銑による安価で良質の鋼が出回り始めていたことから「むつ製鉄」の企業化は困難であるとして1965年(昭和40年)に中止となってしまった。これにより天間林村(現七戸町)底田鉱山からの砂鉄鉱の輸送が消えてしまい、その後の経営が苦しくなって行った。
昭和43年5月16日 十勝沖地震発生 全線不通 
被害額は2,400万円に達した。
この時、国鉄が輸送力増強対策として東北本線の電化及び複線化を実施し、急勾配のある区間のルート変更も合わせて行ったため、当社連絡駅の千曳駅は移転される。
そのため、連絡運輸が不可能となり、野辺地駅まで路線を延長することとなる。国鉄の協力を得て野辺地〜千曳間5.6キロの内、旧東北本線の3キロ余りは国鉄から施設ごと借用することができ、残りは新線を敷設して、野辺地までの運行を開始した。その後の昭和49年のオイルショック、ドルショックに次ぐ経済不況により経営は苦境に陥る。
昭和59年2月1日 鉄道貨物営業を廃止
貨物輸送は鉄道営収の60%余りを占めていたことから廃止による影響は極めて大きいものだった。
しかし、この運行も新幹線の開通により東北本線が青の杜鉄道にいかんされると、借用していた施設の買い取りが求められたのであった。これを機械に南部縦貫鉄道は廃業に追い込まれてしまい、東北新幹線の「七戸十和田駅との連絡の役目を果たすことなく消えてしまった。その後の紆余曲折(うよきょくせつ)をへて平成14年8月1日 鉄道業ノ廃止となったが、バスやタクシー営業は存続している。
現在も保存活動により終点の七戸駅跡でレールバスが動態保存されている。
ソレニ、現在ノ七戸町は東北新幹線の「七戸十和田駅」が設けられて、この“南部”の中心の地位を取り戻しているノハ喜ばしい。
この文を制作するに当たり、多数の文献などを参考にさせて頂きました。厚くお礼を申し上げます。

撮影:昭和43年5月。