自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
SL写真展 ( INDEX )〜アメリカ保存 & 日本現役
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・東北本線/千曳旧線を訪ねて
339.
千曳旧線、プロローグ
・東北本線/乙供-千曳-野辺地
〈0001〈稲田に陰を落として、石文(信)-千曳〉
〈撮影めも〉
千曳駅でサミットを越えた上り列車は切り通しの坂を下ってカーブを切りながら石文(いしぶみ)信号場へ向かっている。この辺りは太平洋岸に広がる小川原湖へ流れる高瀬川の流域で水田が営まれていた。この信号場は昭和32年(1957年)10月に東北本線の輸送力増強の一環として設けられた多く野信号場の一つであった。
〈0002:新線の築堤から旧線を登る旅客列車の力走、野辺地→千曳〉
〈撮影メモ〉
旧線の築堤の東側にほぼ築造が終わった複線幅の築堤を前景に旧線を登ってくる各停の旅客列車を夕暮れの中で捕らえた。こうして見ると新線の築堤も方が旧線よりも高さが低いように思われる。
〈0003:国道4号線沿いの松林を前景の旧線築堤〉
〈撮影めも〉
旧線の築堤の西側の高台から俯瞰(ふかん)気味に撮った。ここは
明治24年(1910年)に開通した当時のままの16.7‰の勾配の築堤を登る各停旅客列車で、手前は国道4号線(陸羽街道の近道(上道)である。築堤と国道との間にある杉林は鉄道の防雪林であろうか。
〈0004:bO90126、千曳築堤の129客レ〉
〈撮影メモ:昭和42年11月4日撮影〉
千曳新線の築堤から眺めた終戦の築堤を行く129客レの情景です。ここは1/60 の急勾配(16.7‰)を軽快に下って野辺地へ向かっている。
手前の砂利道の橋を工事していた人々が列車を見上げていた。背後の山すそには旧奥州街道沿いの集落の家並みが見えた。築堤の背後には国道4号線が野辺地へ向かって坂を下っているはずである。
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〈紀行文〉
このシリーズでは東北本線を北上し、当時非電化区間であった盛岡から青森間の北部に当たる太平洋に面した八戸から陸奥湾に面した野辺地の間にある通称“千曳(ちびき)旧線”を訪ねた記録である。SL撮影を初めて間もない頃はもっぱら常磐線のC62牽引の寝台特急「ゆうづる」や、東北本線の奥中山のD51三重連を追いかけまわしていた。
その子露委読んだのが本島三良(1904-1988年)著、「鉄道」(昭和37年鉄道図書刊行会発行)であって、ここには東北本線の三沢から千曳に掛けての蒸気機関車の活躍の姿が正統な鉄道写真のサンプルの如く飾られていたし、また私の勤めるホンダの部下にKさんと云う当地出身の班長がおられて、冬の「みちのく」の厳しさを、八甲田山系から吹き下ろす風雪が列車に吹き付ける様を話してくれていたこともあって、一度は訪ねたいとおもっていたのだった。そして、昭和42年11月上旬になって初めて最北の青森県内まで足を伸ばして千曳旧線の偵察を試みたのだった。ここでは、旧線の大築堤を上下する大型蒸気機関車の牽く客車や長大編成の貨物列車の活躍振りにも驚いたが、何よりも長い勾配が北から南へ登ってくる位置関係から陽光の選択も自由だし、撮影も接近から俯瞰(ふかん)、仰ぎ見るなど多彩なテクニックが駆使できる魅力的だった。それにも増して、厳しい冬の風雪と闘うSLの姿の素晴らしさには戦慄を覚える程であった。それから翌年の昭和43年10月に行われた時刻大改正の東北本線全戦複線電化までの1年足らずの間に何回か訪れたのであった。
先ず東北本線の前身である日本鉄道の奥羽線の建設の経緯から始めよう。この東北地方を縦貫する鉄道敷設の計画は随分と古い。明治政府が出来て間もない明治5年(1872年)11月と云う早い時期に北海道連絡を目指して、工部省の准十等出仕の小野友五郎に東京・青森間の鉄道建設ルートの測量を行わせている。この小野友五郎(1817-1898年)は江戸幕府の長崎海軍伝習所で測量技術を学び、その後海軍操練所の教授を勤め、日米修好条約締結のための渡米する咸臨丸の太平洋横断公開では勝海舟船長の下で、航海長を勤め、また小笠原群島の測量を成功させると云う輝かしい業績の持ち主であって、維新後は鉄道建設に大きな貢献をしたことで知られた人である。この時の東京〜青森間の測量はおおむね奥州街道に沿っていたが、現在の青森県に入ってからの三戸〜野辺地間だけは奥州街道(国道沿い)の五戸・三本木原(現在の十和田市)・七戸を経由するルートと、現在の東北本線と同様な尻内(今の八戸)から沼崎(今の上北町)
を経るルートの両案を測量していた。
そして、明治 13年(1880年)12月になって、明治政府は北海道開拓使の招きで幌内鉄道の建設を指導していたアメリカ人鉄道技師の ジョセフ・ユリー・クロフォード(明治12〜14年の2年間滞在)に改めて青森―東京間の鉄道建設ルートの調査を命じた。かれは開拓使の土木技師の松本荘一郎(後に鉄道局長となる)と踏査を行って翌1月に報告を提出した。そこには野辺地を起点とし、南に向い、八戸に出て馬淵川を遡り、福岡・小繋経由盛岡に至るルートを選んでいる。
やがて、日本鉄道が東北線を建設するに際しては、陸軍から海岸線沿線のルートを避けて内陸通過にするようにとの要請がなされたにもかかわらず、海岸には接近しない条件で最終的に八戸経由で建設が行なわれた。
この背景には奥州街道沿いは高山峠(標高 277m)などの山越えがあることと、街道筋の人々から鉄道の通過を嫌われたことも一因であると云われているのだが、この鉄道線を建設する要件のなかに主要な開港場を経由する要件が入っていたことも八戸を通過せざるを得なかった要因ともかんがえられるのだが、いかがであろうか。
そこで、この区間の地形を説明すておこう。下北半島の西側の付け根に当たる陸奥湾に面した野辺地と太平洋岸に広がる小川原湖畔に隣接した三沢の間には、北から下北半島の北端にそびえる恐山から西へ続く下北丘陵が、一方の本州側からは八甲田山から東に分かれた尾根が長いすそ野を引いて六カ所台地となり、そして大平台地が接していた。この台地から、その東側に八戸平野や太平洋に面した小川原湖などの低地荻が広がっており、西北側には陸奥湾が眺められた。この太平台地の標高は約200m前後程度であったが、野辺地側は低地が台地の根本まで入り込んでいて、急な斜面で台地へ繋がっていた。
明治24年(1910に)に日本鉄道が東北線を建設するに際しては、
三沢からは小川原湖岸を走り、沼崎駅を設けた。この駅は内陸の七戸町や十和田町への玄関口でもあった。その先は太平台地の西を迂回して鞍部へ鉄路を通すために、乙供の先で最小半径300mを含む半径500mの曲線(通称 旗屋のカーブを設けて、サミットの千曳駅へ向かっていた。そして野辺地までの間に広がる低地帯に5qにおよぶ大築堤を築いて、最急勾配を 16.7‰に抑えることにせいこうして開通させたのであった。
実際の開通時の駅は三沢、沼崎、野辺地であったが、3年後に沼崎駅から野辺地方へ6.9kmの地点に乙供駅が開場した。さらに時が過ぎて日本鉄道が国有化された後の明治43年(1910年)になって乙供駅から野辺地型へ6.6kmの地点の峠の頂上付近に千曳駅が設けられた。この場所は野辺地駅を出て野辺地川鉄橋を渡って5qに及ぶ16.7‰の急勾配を保った大築堤を登り詰めた台地の突端にあって、冬の北西からの風雪を防ぐ杉の防雪林に囲まれていた。駅の近くには奥州街道沿いの千曳の集落があったことにちなんでの命名であったと云う。
その後に、この勾配と旧カーブを解消して将来のスピートアップい備えるための複線電化計画が検討され、現在線の東側に長い築堤のアプローチを持つ大平トンネルが大平
台地の下を痛感し、千曳駅を移設する形で新ルートの約13qの新線付け替えが行なわれることになった。
このため、現在線の区間を走る蒸気列車を電化工事に邪魔されることなく撮影が出来たことから“千曳旧線”と呼ばれる有名な撮影ポイントとして知られるようになった次第なのである。ここでがぜん有名になって来た“千曳(ちびき)”なる地名の由来や南部縦貫鉄道については次のサイトで述べておりますのでご覧下さい。
撮影:昭和42年11月 & 昭和43年5月。